そりゃ、「ダブリナーズ」を三回、「若い芸術家の肖像」を三回、「ユリシーズ」を二回読んださ。でも、この人の「文学」は慣れている19世紀の小説とは全然違っている。たとえば、ドスト氏を読むような仕方ではなにも語ることがでてこない。それでもどうにか「文学」的なことを言おうとして、文庫の解説や新書の啓蒙書などを読んで、なんとか感想を作り上げてきた。でもなんかしっくりこない。よくわからないし、理解したとはまったくいえない。けれど、気になる作品で作家だ。
なので、山形浩生がアントニイ・バージェス『ジョイスプリック:ジェイムズ・ジョイスのことば入門』を全訳してくれたので、勢い込んで読んだ。もともと山形浩生の「たかがバロウズ本」で一部紹介されていたので、気になっていたのだ。公開元はこのページ。

これは英国の作家アントニイ・バージェスが1971年に出したジョイスの解説書。ジョイスの作品全般を取り上げているが、とくに「ユリシーズ」が詳しい。本書のいいところは、英語話者が書いているということ。日本の研究者や学者だと、駄洒落や替え歌やなぞなぞやカバン語などのジョイスの仕掛けはけっこうスルーして、歴史やダブリンというトポスや宗教や民族などに拘泥するのだけど、バージェスはイギリス英語の話者としてダブリン英語がいかに違うかというところから入る。そうすると、同じ表記の言葉でもイギリスとダブリンでは発音が違っていて、イギリス支配下にあるダブリナーズはイギリス発音を聞くとコンプレックスを感じてしまう(「ダブリナーズ」や「肖像」にそういう感情の記述が頻出しているんだって!)。発音(ことに母音)が異なるので、イギリスとダブリンでは韻の踏み方も異なる。ジョイスの韻文がおかしな感じになるのはこんなところに理由があるらしい。こういうのは英語話者は当然知っていることなのだろう(ジョイス作品の朗読や映画ではダブリン訛ができる俳優が配役されるのだって)。こんなのは極東の別言語話者には教えてもらわないとわからない。
そのうえ、ジョイスの言葉遊びはとても深い。複雑で多義的。複数の言語の合体。暗喩と連想飛躍。上の三冊には詳細な註がついた邦訳がでているけど、そこの注釈では全然まにあわない。足りない。深堀りしてない。バージェスは研究者じゃないので網羅はしていないが、例にしたものの説明はとっても深い。明快。いやあ母語の話者の読み取りはすごいや。ジョイスがやっているのは、言葉や文字を加工してなにか言いたいことを隠すのではなくて、言葉や文字へのこだわりがすごいからなんだって。学者の解説ではそこは指摘されない。学者や研究者の翻訳だと、原文の変な感じはかなりスポイルされている。教養がちゃんとした文章にしてしまうのだ。それだとジョイスから離れてしまいそう。
(日本だと、井上ひさし「吉里吉里人」を翻訳で読むような感じかな。日本語話者で1970年代を知っている者には説明抜きでわかることが、翻訳だとたぶん失われてしまう。あるいは「〇〇を八百回読んだ」と書くと、「八百」は嘘八百や八百長などの慣用句からの類推でうそや冗談だと日本語話者はわかる。でも翻訳されると「Why eight hundred?」となってそこに過剰な意味づけをしそうになるとか。)
あとイギリス支配下のダブリンは貧しいので、文化資産が全然違う。ダブリンにはクラシック音楽のコンサートも声楽曲リサイタルもオペラもない。美術館もないので視覚芸術を鑑賞する機会がない。図書館と新聞社はあるので、知識人は本を読むしかない。なのでジョイスの小説では音楽は軽音楽か歌謡曲しか出てこない。絵画彫刻を鑑賞する人もいない。ヨーロッパの知的エリートやディレッタントが馬鹿にする軽薄な文化しかない。ここは同時代のトーマス・マンやロマン・ロランとは大きく異なるところ。
さらに、教育水準もものすごいばらつきがある。大学に行っているスティーブンにとってアリストテレスは大哲学者であるが、義務教育くらいのブルームには産科の教科書を書いた人という認識。モリーは名前すら知らない(なおモリーのナラティブはジョイスのパートナーであるノラという女性の写生なのだって)。知的エリートでディレッタントの作家先生は、自分の小説のキャラを下層階級に設定しても、合理的な思考をして思いがけない知識をしゃべりだしたりするもの。ジョイスはずっと下層階級はその通りの喋りをするように書いていた。キャラがいた19世紀末の階層をまず言葉で残そうとした。内面の流れも、言葉遊びも、服装も食の嗜好もそう。ダブリンに取り憑かれていたのは、街の通りや建物だけじゃない。なるほどねえ。
英語話者はがんがんジョイスを読んでいて、「ブルームの日」にダブリンに集まって、ツアーに出たり、コスプレしたり、小説にでてきたパブで食事したり(小説に出てきたのと同じメニューがあるのだって)、街角で朗読したりする。すごい高尚な趣味で高い教養の持主と思い込みそうだが、彼らの趣味や嗜好は教養主義とはちょっとちがうのだね。もっと身の丈にちかいところで読んでいるのだ。
とはいえ、ジョイスを読んでも
「読者がブツブツ文句を言いがちなのは、こうした重要な物語情報が欠けているせいが最も大きいだろう。やまほど余計なものを読まされたあげくに、パンが半ペニー分も手に入らないのだから。」
ということになる。一生懸命読んでも、
「同書の本当のナゾナゾは、その主観的で自伝的な性質、参照されているものの実に多くの私的な世界にあるのだ」
とジョイス自身の謎を解き明かすことになるのだ。これはシェイクスピアやエドガー・A・ポーやドスト氏などを通して、近代や大衆社会などを見ることとはずいぶん異なる。なのにジョイスをこの3人みたいな創作家のように読むのはちょっとねと思いましょう。バージェスも、語る行動と語られた行動が一致する小説を書く第1種と、言葉や音、視覚的な記号である文字を操る第2種の作家がいるんだよと言っているのだし。同じ評価軸で見るのは止めましょうってことだ。あとジョイスは19世紀の美学とかドイツ観念論哲学などでは語りようがない作家だ。哲学の語彙で語ろうとすると、ジョイスは遠いところに行ってしまう。
あと本書がありがたいのは、ジョイスの小説や仕掛けが常に成功しているわけではない、ときにはスベッているといっていること。たとえば「太陽神の牛」では、胎児の成長と言語の成長を対比しているけど、それが成功しているかというとどうもね、という。なるほど文体模写に気をとらえるとストーリーがわからないし、ストーリーを追おうとすると文体に隠した情報を見逃すし。俺は全部読み切ったぞという達成感しか記憶しないことになるし(それはとても大事だが)。なにか高尚なことをいわないとブンガクがわからないやつと思われるかもしれないというコンプレックスから解消されそう。
学者の注釈書ではなくて、博識な読者の説明本なのがとてもいいです。俺みたいな読者の横で、こここうだよ、この文字列にはこんな言葉が隠れているよ(それがあそこにつながっているよ)というのを、すらすら嫌味なく教えてくれる感じ。
念のためだけど、本書はジョイスをこれから読む人向けの入門書ではない。「ダブリナーズ」「肖像」「ユリシーズ」をとりあえず読んだ人向けの解説書です。