odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

アイスキュロス「ペルシア人」(KINDLE) ギリシャ悲劇を政治学の教科書として読む。サラミス海戦大勝をペルシャの側から描くことで、愛郷心と愛国心をを喚起し民主制の大事さを教える。

 アイスキュロスの全作品を読む。この人は紀元前525年頃 - 紀元前456年頃が生没年。ペルシャ戦争の勝利を経験し、紀元前480年9月のサラミス海戦に従軍していた。ペリクレス時代の少し前に亡くなった。ソポクレスより二世代くらい上の人になるのかしら。下図参照。


 呉茂一訳のギリシャ古典「ギリシャ悲劇全集 1 アイスキュロス」(ちくま文庫)で以前読んだが、手元にない。今回読んだのは、グーテンベルク21で復刻された内山敬二郎訳。個人でギリシャ悲劇全集を訳した人。明治生まれの人なので、訳語は古く文語調。入手しやすいのはこちらかも。

 ギリシャ悲劇を読むときには、古代ギリシャの歴史に見通しをつけておくことが大事。ギリシャ悲劇を読む前に世界史の通史を読んだ。その時の感想。

odd-hatch.hatenablog.jp


 ギリシャ悲劇はアテネの民主制の最盛期に作られた。悲劇では神話的な呪術思考と民主制の合理思想が相混ざっている。自分は後者に注目しながら読んだので、ギリシャの民主制と対外政策についてある程度知っておいたほうが良い。

 この表で「ポリス社会」の印がついているころに、ギリシャ悲劇とギリシャ哲学が出た。

 

 放送大学舞台芸術の魅力」講座を見ていたら(正式受講はしていないので、俺はニセ学生)、ギリシャ悲劇を解説していた。アテナイディオニソス劇場があり(現存)、収容人数は15,000人。この人数はアテナイの市民(納税と徴兵の義務がある成人男性)と同じ。毎年3月の終わりに全市民が集まってディオニソス大祭を開催した。そこでは全市民が集まらねばならない(女性も観劇はできたらしい)。仕事があるものには市が収入分を支払って市民の義務を果たさせた(なお労働は奴隷が行っていた)。大祭では1週間悲劇が上演された。市民には劇を上演するスタッフになる義務があり、数年ないし十数年ごとに担当が回ってきたという。すなわち古代ギリシャの民主制はギリシャ悲劇とともにあり、劇の上演にかかわることが民主制を実行することと同義だった。
 そうなので、古代ギリシャの劇は近世以降の上演者と観客が分かれた劇とは全く異なる。シェイクスピアを鑑賞するようなやり方で古代ギリシャ劇を見るわけにはいかない。通常、古代ギリシャ劇はギリシャ哲学や哲学との関連で語られる。そこから人間存在の在り方を抽象的に語ったりもする。それは尊重するとして、うえのような仕組みをみると、俺は古代ギリシャ劇を政治学の教科書とみなしたい。
 上演を見た後に、観衆は人間存在の不思議さよりも、劇中人物の行動や判断について議論するのではないか。劇の多くは神話であるにしても、起きていることは身につまされる〈現在〉そのものだ。他の諸都市との戦争、難民や亡命者の受け入れなどほかの共同体との関係が主題になっている。神話にでてくるようなヒーローや政治的な大立者はめったにいないにしても、常日頃都市に難民や亡命者や異邦人がやってくる。政治的な処理を誤ると都市は信用をなくす。そうすると、劇を上演することは法や慣例に代わって都市の規範を確認する作業になる。神話の人物(オデュッセウスオイディプスアンティゴネーなど)の判断と行動を見て、それが結果になったものを知る。それは〈現在〉でも妥当なのか、それとも新しい規範になるべきか。自分が商人や戦士として別の都市に行ったときにどのようにふるまうべきであるか。劇は自分と都市の行動と判断を考え検証するものさしになる。上演に参加し、もしかしたらセリフを語ることになったら、より深く知ることになるだろう。(もちろん一族と都市民が崇拝している神々を思い起こすことはナショナリズムを喚起し、市民愛を深めることにもなる。これも古代ギリシャ劇が政治的である理由になる)。
 さらに放送大学ラジオ「世界文学の古典を読む」第2回ソポクレス「オイディプス王」を聞いて補完。ギリシャ悲劇には形式がある。仮面をつけたプロの俳優2人から3人が対話する(二人に増やしたのがアイスキュロスで、三人に増やしたのがソポクレス)。コロスと呼ばれる12~15人の合唱隊(最大50人ほど)が踊り場オルケストラという場所にいる。コロスはアマチュアの市民が担当。プロローグがあったのち、俳優の対話とコロスの合唱と踊りが交互に行われ、エクソダスでコロスが退場する。悲劇では、観客である市民がよく知っている神話や伝説が取り上げられるが内容や結末を変えることがある。その違いを楽しむものであった。たとえば、オイディプス伝説の最も古いのはホメロスの「オデュッセイア」である。それはオイディプスが父と殺し母と近親相姦をして母が自害しているが、オイディプスは事実が明らかになっても退位していない。目をつぶし自らを都市から放逐したのはソポクレスによる追加である、など(この節に書いたことは、藤沢令夫訳「オイディプス王岩波文庫の解説にすっかり書いてありました。これまで半世紀、何読んでたんだか)。
(あほついでに妄想を書き込もう。ギリシャ悲劇はもともとはひとりの朗唱だった。「悲劇」の時代をさかのぼること500年の「オデュッセウス」や「イーリアス」はひとりがしゃべるのを皆が聞いていた。北欧のサーガやアイヌ口承文芸がそうだったように。次第に集まる人数が増えると、劇的効果を求めるようになった。それで合唱が加わってポリフォニックになり、器楽が効果音やBGMを流すようになった。演技がつけられるようになった。うまい朗誦者や俳優は共同体が生活を支えるプロになった。プロが増えると、ひとつの劇に参加する俳優を増やして対話形式にしたのだ。こういう発展はほかの芸能でもみられそう。)
 というわけで、古代ギリシャ劇を政治学の教本として読んでいく。自分がアテナイの市民になったかのように。

 「ペルシャ人」は現存しているギリシャ悲劇で最も古いもの。上演はBC472らしい。題材にしたのはBC480のペルシャ戦争の中のサラミス海戦。ペルシャ軍が1000艘を用意していたのにたいし、アテナイ軍はわずか300艘。圧倒的に不利な状況ではあるが、ギリシャ軍は陸戦でも海戦でもペルシャ軍に大勝した。詳細はwikiを参照。

ja.wikipedia.org


 舞台はサラミス戦の勝利を待っているペルシャの都スーサ。若者たちがすべて出征したために残っているのは老人と女性だけ。老人は大勝間違いなしと確信しているが、便りがないのでどうにも不安。そこに先王ダレイオスの妃にして王にして遠征軍の大将であるクセルクセスの母であるアトッサが来て、昨日の夢見が悪いという。老人たち(コロス)が慰めるが、一向に意気が上がらない。そこに使者が来て、我が軍大敗の報を知らせる。報告は詳細を極め、陸戦でも海戦でも圧倒され名だたる将軍はことごとく討ち死に、死者は多数、生き残りの兵士も悲惨であることがわかる。先王に供物を備えなければ、とアレッサが赴けばそこにダレイオスの亡霊が現れる。なぜ呼び出したのかと不機嫌な亡霊に、長老(コロス)は口をつむぐが、アトッサは命令に従い事態を告げる。大敗したのはクセルクセスが驕り昂ぶり、戦もよく知らないのに、悪い奴らにそそのかされて戦を始めたせいだと口説く。怒った亡霊は、アテネは土地の霊が人々を助けているから侵攻してはならぬ、他人の富を乞い求めて巨大な富を浪費するな、アテネギリシャを忘れるなと説教して消える。そこに襤褸を着たクセルクセスが現れ、長老たち(コロス)ともども長く長く嘆き、悲しみに暮れる。
 サラミスの海戦からわずか数年後に上演された。俳優も観客もできごとをよく知っている(なので使者の報告はまるでニュース動画をみるような臨場感を観客にもたらしただろう)。それも我が軍の才知や勇気や英雄的行為を一切描かず、敵の側のできごととする。すなわち地中海の覇権をもつ大帝国であるペルシャが敗戦に動転し、狼狽え、嘆いているだけの状況を示す。しかもペルシャ人の口から、アテネの神威と神の威光を語らせる。さらに、大国であることに慢心したことが敗戦の原因であり、大国であっても侵略戦争は無謀であると、アテネの市民に教訓をもたらす。
 まことにアテネの市民にとっては、愛郷心愛国心を喚起させ、民主制の大事さを教える実にありがたい劇なのだった。そこには多少の自尊心を満足させる効果も入っているだろう。
(岡崎勝世「世界史とヨーロッパ」講談社現代新書によると、「ペルシャ人」は、ヨーロッパは自由、アジア(ペルシャ)は隷属という一般的な考え方と述べている。ペルシャ戦争は自由対隷属の戦いで、ヨーロッパの自由が勝利をおさめたとしているとのこと。これは読み取れなかった。)
 この作はコロスがとても大事。劇は少数の俳優とコロスのかけあいで進む。俳優が観客の心情を喚起するセリフを言えば、コロスの合唱がそれを増幅する。テキストを読んでいるだけで、気分は高揚するのだが、合唱と音楽を伴ったらいったいどんな効果になったものか。17世紀以降のオペラなら何がふさわしいだろうと思ったが、この悲劇に会うような作品は見つからなかった。なお、クセルクセスが登場して以降の嘆きのかけあいは、21世紀からみるとしつこすぎた。

 

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