複数回読んでいるにもかかわらずソポクレス「オイディプス」は歯ごたえがありすぎて、自分の感想も皮相に過ぎると思っていた。そこで、ギリシャ悲劇の泰斗による解説を読む。

まず前提になるのは、ソポクレスがこの悲劇をかいたBC427年の状況。ペロポネソス戦争が長年続いていた。海軍力に勝るアテネは籠城策をとったが大失敗。BC429年に疫病が蔓延し指導者ペリクレスが死亡してしまった。悲劇が起きたテーバイはまさにアテネ自身が直面している問題そのものだった。
初演のとき、市民はオイディプス神話を熟知していた(ただし王が自らを罰し追放する事は含まれていない。これはソポクレスの創作)。なので、劇中でオイディプスが先王ライオス殺害者を捜索するとき、オイディプスがセリフが彼の運命自身を暗示していることに慄然としたはず、だという。劇のキャラは知らないのに、観客は先んじて答えを知っている。それが劇を自分事としてみることになった。
(とはいえ、それから2500年もあとの読者は当時の観客と前提を同じにしていないので、勉強しないといけない。)
劇の前史をおさらいすると、
先王ライオスが道中で殺され犯人はわからない。謎のスピンクス(ママ)が現れ、市民になぞかけをして殺していた。代理の支配者クレオンはスピンクスの禍いを取り除くために、謎を解いたものを新王としイオカステと結婚すると誓約する。そこに出自不明の放浪者オイディプスが謎解きをして禍いを除く。クレオンの誓約は履行されたが、それから数年。再びテーバイに不毛と疫病が蔓延し、人びとは英雄オイディプスに助けを乞う。彼はスピンクスの災いを神の叡智を聞いて解決したと市民は思っている。しかしオイディプスは自分の知恵で解いたと自信と自負心をもっている。
こうみると、前史と現在は同じ問題を扱っているのがわかる。異なるのは、謎を解いたときの誓約を誰が発するかということ。
1 市の救いのための謎解き ・・・ 冒頭からイオカステの証言(第三スタシモン)までをみる。俺はオイディプスに傲慢や短慮をみたが、本書は違うという。仁慈や同情を持ち果断な決定と迅速な実行をするものである。メモしておきたいことは多々あるが、スピンクスの謎の謎解きが白眉。通常スピンクスの謎は「朝は~~昼は~~」で人口に膾炙しているが、そのようなテキストは古代ギリシャにはない。「地上に、声は一つなのに、二本足でも、四本足でも、三本足でもあるものがいて、地上と空中と海中のすべての生物の中で、ただ一つだけ性質を変える。しかも、もっとも多くの足で歩くときに、足の速さがもっとも劣る」が古形。時間的経過ではなく、同じ性質を同時に備えているのだ。その問いに対して一般的な「人間」は答えとしては不十分。ここでは回答するオイディプスが人間であり、かつ「実父殺し、母子婚」という人間にあらざる罪を負っていて四つ足動物相当とみなされ、足首にピンを刺されていたために杖を持ち歩いていた(ライオス殺害の凶器が杖だった)ので三本足であるから、「オイディプス」という個人が正答なのだ、と本書の著者はいう。スピンクスはそのような人間に遭遇する機会はないと思っていたので、オイディプスの答えを聞いて自死してしまった。スピンクスという神聖な存在あるいは怪物をも驚愕させる人間がいる。スピンクスの問いは単独であるのではなく、オイディプスの悲劇と呼応している。ソポクレスはそのようにオイディプスを見ていたし、おそらく観客も共有していた。
〈追記〉
手元のソポクレスの「オイディプス王」を読み直し。そこで下記のセリフを発見。
【オイディプス】 だがしかし、国王がそのような最期を遂げられたのに、いかなる難儀があって、その捜索の手を妨げた?
【クレオーン】 謎の歌うたうスピンクスが我々を駆って、直接眼に見えぬことは捨ておいて、目前の急に心を致すようにさせたのです。(一〇八~一三一)(グーテンベルク21、内山敬二郎訳)
オイディプス 災難とな?一国の王位がそのように倒されたというときに、事の究明がさまたげられるほどの大事とは、また何ごとが起ったのか。
クレオン かのスフィンクスが解きがたい謎を歌い、そのためにわれわれは、さだかならぬ出来事はひとまずこれをさしおいて、足もとに迫った危機のことを考えなければならなかったのです。(岩波文庫、藤沢令夫訳)
オイディプス 王が倒されたというのに、 / なぜ真相を究明しようとしなかったのだ。
クレオン スフィンクスが謎をかけたため、 / それどころではなくなってしまったのです。【130】(光文社古典新訳文庫、河合祥一郎訳)
なるほど、これを読むとスフィンクスの謎は単独でなされたのではなく、「先王ライオスの殺害者を特定しろ」という命令にかぶせるようにでてきたわけだ。スフィンクスの謎は上の解釈とあわせると、まさに「先王ライオスの殺害者は誰か」という問いであったわけなのだね。おそらく「地上に、声は一つなのに、二本足でも、四本足でも、三本足でもあるもの」という謎を頓智話のように解くものはいたと思うが、それに「人間」と答えても、「先王ライオスの殺害者は誰か」に答えたことにはならない。ただひとりオイディプスが「人間」と答えた時にだけ、正答に達したというわけだ。しかもその正答者は比類なき穢れと罪をもつもので、それに無自覚であった。クレオンの誓約(スフィンクスの謎を解いたものを王に迎え先王の妻イオカステと結婚させる)は「先王ライオスの殺害者を特定しろ」の命令を先送りにした。それがこののちの悲劇をもたらす。上のセリフが劇のエピローグにあることで、観客はすでに理解していたのだ。
2 自己の正体の暴露 ・・・ オイディプスには「実父殺し、母子婚」の神託があったので、実行されないようにコリントを出た。途中で傲慢な男を殺しスピンクスの謎を解いた。その英雄的なふるまいでテーバイの王になった。オイディプスはテーバイの災いと不毛に対して原因者が不運な目にあい不幸な生を送りみじめな破滅となるようにと呪いをかける。そのために先王殺しの犯人を捜索する。次第にあきらかになるのは、オイディプス自身が犯人であるということ。イオカステはデルポイの神託の権威を疑い、オイディプスもそれになび欠ける。しかし、彼の出生をしっている老人と羊飼いの証言により、デルポイの神託通りであることがわかる。
俺はここまでで満足してしまったが、著者はさらに掘り下げる。オイディプスはわが身を呪うのであるが、神や運命を呪わない。わが身に起きたことに対して、王であった時の命令を実行する。自分の責任で引き受け果断に実行する。そのあと新しい王になるクレオンに二つを懇願する。ひとつはイオカステの葬儀を執り行うこと(死者は放置してはならず弔わねばならない。後日談になる「コロノスのオイディプス王「アンティゴネ」のテーマ)。未成年の娘の親代わりになれ(呪われた人の娘は結婚できない)。テーバイへの義務と責任を果たす。オイディプスは神託に忠実であると同時に、人に対しては義務と責任を負う。英雄性を失っていないのだ。
悲劇の冒頭とはクレオンは立場が入れ替わってしまう。オイディプスの中傷に対しては寛容であったが、この小心で優柔不断な男はやつぎばやのオイディプスの要求に気おされる。果断な決断をつぎつぎに進めるオイディプスに即断する事を強制されているかのよう(なので、後日談ではクレオンは頑迷固陋になるわけか)。
オイディプスは自分の目を傷つけることで杖を突いて歩くことになる。すなわち、劇の冒頭では二本足の人間であったが、「実父殺し、母子婚」をした四つ足の動物相当であり、みずから杖を使う三本足になった。ここでスピンクスの謎はオイディプス自身によって解かれ、「人間」という回答は普遍的な存在者をいうのではなく、オイディプス自身を指しているのである。
劇の冒頭は「先王ライオスの殺害者を特定しろ」だったのが、「オイディプスのほんとうの実父母は誰か」も加わり、最後にはスピンクスの謎にもつながる。観客はオイディプスの少し先にいてすべての答えがわかっているのだが、それでもなお驚きと感動をこの悲劇から受け取ることができる。その技法、文体の重厚さ、主題の深さ、どれをとっても傑作。単独ではここまで読み取れない。著者に感謝。
ここまで読んでびっくりしっぱなし。俺の読みがいかにあさはかだったか、恥じ入るばかりです。登場するキャラすべてのセリフを読み込み、オイディプスとの関係をみていくとここまでよみとれるのだね。ソポクレスの悲劇からは探偵小説的な謎解きに感心していたのだが、あまりに皮相でした。
この本が読みやすいのは、論述と論証で邦訳を参照しながらということ。ギリシャ哲学の論文を読んでいやになるのは古代ギリシャ語の説明と解釈がえんえんと述べられること。それは重要なことなのだろうが、素人には煩瑣にすぎる(ハイデガーさん、あなたの著述のことを念頭においてます)。本書で登場するのはピュシス(自然)とアリストテレスの「詩学」に基づくペリペテイア(急転・どんでん返し)とアナグノーリシス(認知・発見)。パラデイグマ(典型、範型)くらい。これだけなら議論を追いかけることができる。
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2025/09/19 吉田敦彦「オイディプスの謎」(講談社学術文庫)-2 BC430年前後のアテネの政治情勢と重ねて読もう。「コロノス」は90歳のソポクレスがアテネ市民にあてた遺言。 1995年に続く