2026/02/04 岡本綺堂「半七捕物帳 43~49」(青空文庫) 半七は威嚇や暴力で自白強要を迫る特高や憲兵みたいな治安維持担当者。 の続き
青空文庫なので初出情報はない。でも、「かむろ蛇」は1935年の発表。とても息の長い連載です。
半七は芝居好き。隠居してからはしきりと芝居を見に行く。半七の話を聞き書きしている〈私〉も芝居好き。そして古い時代のことが好き。半七のところに足しげく通うのは趣味が一致したから。そのせいか、半七も〈私〉も小説を芝居のように書く。幕を通じて出ずっぱりになるのが半七。子分がやってきては状況説明と新しい手掛かりを伝える。半七の行く先には事件の関係者がいて、嘘をつくか故意にしゃべらないか。事件は錯綜するが、半七のひらめきが一刀両断の解決を示す。そのあとは関係者による事件の再現。時間の順に進むから観客は混乱しない。謎解きのゲームを楽しむのではなく、事件の関係者の秘密が暴かれるのを楽しむ。人と人の関係を知ることが大事。そういうやり方で書かれているので、西洋の探偵小説とは異なる。西洋では一人が犯罪の責任を取るが、捕物帳では人と人の関係が崩れることで犯罪が起こる。悪人はいるが、犯罪の責任をとるほどの悪を働いているわけではない。その悪を追求することまでは岡っ引きはしない。このあたりが探偵小説と捕物帳の違い。
なお、日本人の芝居の趣味は日清戦争を境に変わった。詳細は佐谷眞木人「日清戦争 「国民」の誕生」(講談社現代新書)を参照。芝居は社会情勢の変化を知るためのメディアであるが、明治の半ばに来ると、人びとは速報性とリアリティを求めた。最新のできごとをわかりやすく・うるさく・素早く知りたがった。歌舞伎やそれに類似した旧劇はまどろっこしく、セリフも振りも古めかしく形式ばっていて、テンポがのろい。人びとはそれを見るより、素人の下手な演技でも新劇をみたがった。わかりやすく・うるさく・素早いのにリアリティーを感じたのだった。半七や〈私〉や岡本綺堂は古いほうの芝居に愛着をもっていた。でもそれはうけない、当たらない、客を呼べない。そこをなんとかしようというのが綺堂の仕事だった。

正雪の絵馬(第五十話) ・・・ 安政元年1854年。由井正雪直筆の絵馬を盗んで自慢している旦那がいる。それを聞きつけた男はそれは詮議になるから、奉行や岡っ引きを買収してもみ消しましょうという。金をずいぶん出したところで、旦那は家出してしまった。半七は番頭から旦那を探してくれといわれる。驚いたことに旦那は首をつって死んでしまった。事件の背景はずいぶん複雑で人の関係は面白いのだが、前半の捜査にまったくでてこない。前半と後半が完全に分裂。講談にはよくても探偵小説には物足りない。
大森の鶏(第五十一話) ・・・ 嘉永四年1851年。川崎大師にお参りに行った帰りの大森、茶屋で休んでいた中年増にいきなり鶏がつつきだした。防いだ半七は年増の顔に見覚えがあるとひっかかって、手下に詮議を命じる。鶏怪談がいつのまにか、鳥屋夫婦の話になり、そこに旗本のドラ息子がからんでいく。こりゃ謎解きなんぞできなくて、話がどんどん転がるのを楽しむしかないな。綺堂の話術に聞きほれましょう。
妖狐伝(第五十二話) ・・・ 安政六年1859年。すでに開港していて横浜、品川には黒船の乗員が遊びに来るようになっていた。鈴ヶ森(刑場)で深夜に狐がでる。見たものは気を失ってしまった。他にも天狗がでるという噂もある。周囲では贋金が使われている。半七は品川の遊郭で駆け落ち騒ぎがあったのを聞きつけ、怪談と遊女のゆくえを解決する。背景が複雑すぎて、綺堂の語りを唖然として聴くしかない。
新カチカチ山(第五十三話) ・・・ 文久元年1861年。旗本の当主を乗せた川船が途中で沈んだ。船頭は助かったが、当主と妾、娘らが溺れてしまう。お家鶏潰しは免れたものの、真相はやぶの中。半七ら町方に捜査が依頼されたが、武家の敷居は高くてはかどらない。そのうちに、当主の後継ぎの息子が女と心中し、川渡し船の持ち主が殺されてしまう。語り手の「私」が入り組んだ事件ですねえと茶々を入れるくらい。背景が複雑すぎ。殺人のターゲットは実は……という趣向を生かすことができませんでした(というのは探偵小説目線の評価)。舞台だとこういう書き方がよいのだろう。
唐人飴(第五十四話) ・・・ 嘉永四年1851年、「大森の鶏(第五十一話)」事件の三か月後。唐人の格好をした見知らぬ飴売りが青山あたりを流している。ある日、飴売りの片袖をつけた人間の腕が見つかった。それも二度。でも飴売りには腕がちゃんとある。腕を見つけた女師匠(中年増)を見つけると、芝居小屋の諍いが耳に聞こえてくる。半七はそこに目をつける。ああ、ややこしい。ガボリオやボアゴベの新聞小説みたいに人の入り組んだ関係を解き明かすことが当時(大正時代)の関心だったのだね。
かむろ蛇(第五十五話) ・・・ 安政五年1858年。神田の商家に娘死ぬの呪い文字。ある夜、奉公人の娘が蝮の毒に当たって死んでしまう。その親は商家(勘当された家)に金千両をゆする。しゅびよく金を手にすると、商家に出入りの大工がコレラで死んだはずの姿を見せ、ゆすりを働いた親も長屋で殺される。呪いと幽霊がでてきた錯綜した事件を半七は見事に解明。捕り物の大立ち回りのサービス付き。創元推理文庫の「日本探偵小説全集 11」名作集で綺堂の半七捕物帳から選抜された二編のうちのひとつ(もうひとつは最初の「お文の魂」)。
河豚太鼓(第五十六話) ・・・ 文久二年1862年。河豚太鼓は河豚の皮を使った子供用の玩具。葉茶屋の7歳の息子が行方不明になる。神隠しかと思われたが、半七の家に息子が無事であるから手を出すなという投げ文が届く。その文字と同じ筆跡の手がかりが見つかって、半七は歩き回る。冒頭の蘊蓄はなしが最後の謎解きにもつながっていて、自分は「かむろ蛇」よりこっちを取りたい。当時の種痘の情報が手短にまとめられていた。
江戸では安政六年から種痘所というものが出来て、植疱瘡(うえほうそう)を始めました。このお話の文久二年はそれから足掛け四年目で、最初は不安心に思っていた人達も、それからそれへと聞き伝えて、物は試しだから植えてみようと云うのがぽつぽつ出て来ました。
種痘を植えると牛になるという迷信ができたのはこのころ。今の反ワクチンみたいな陰謀論は昔からあった。
(放送大学の「日本人は疫病とどう闘ってきたのか 後編 中近世:江戸の医療と疫病」で、種痘の歴史を解説していた。天然痘にかかった人と接触すると罹患しなくなる(集団免疫を獲得)のは経験的事実として知られていた。18世紀に天然痘にかかった人のかさぶたを健康な人に貼り付ける方法が試されていた。日本では洋学で西洋の医学書を翻訳することで19世紀初頭には知られていた。1820~30年代に中国からかさぶたを輸入して試すことが行われていた。これは効果がとてもでにくい。ジェンナーの種痘法は18世紀末に確立していたが、日本に伝わったのは上記のように1840~50年代。)
綺堂の捕物帳を継承したのは坂口安吾の「明治開化安吾捕物帖」。すでに「顎十郎捕物帳」が出て探偵小説に寄せた捕物帳がでているのに、なんで安吾は古い書き方(それこそ黒岩涙香みたいな)にしたのかと憤慨した。でも安吾の意図は綺堂のやり方を踏襲することだった。
https://odd-hatch.hatenablog.jp/entry/20170907/1504743504
トリビア。当時(明治30年代まで)の芝居は男役者と女役者の共演は不可。劇団も別。この垣根を乗り越えたのが新劇。受けれられたのは大正時代あたりから(はず)。西洋演劇を上演するのが男女の区別を取り払うきっかけかなあ。
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2026/02/02 岡本綺堂「半七捕物帳 57~63」(青空文庫) 半七は犯人を捕まえるが、事件のトリックと動機は捜査しない。目付の半七の権限や役目ではないから。捕物帳は警察小説の一種。 に続く