odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

片山杜秀「ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる」(文春新書) 発注者・買い手・消費者・観客などのステークホルダーが作曲家と作品を変えていく。

 煽情的なタイトルだが、漫然とベートーヴェンを聴くだけでは世界史はわからない。ベートーヴェンが作品を書くに至った背景を知らないと、世界史は見えてこない。ことに彼の作品を価値あるものと認めた「受け取り手」の存在が重要なのだ。すなわち、発注者・買い手・消費者・観客である。その受け取り手も政治や経済や外交や技術などの影響を受けて次第に変質していき、それに応じて作曲家も作品も変わっていったのだ。

 このように音楽史を見るのは、著者が音楽業界の周辺にいて、中心にはいないからだ。通常業界の中にいると、学校や教育、音楽産業などの一員として、システムを維持し栄えさせる意図が意識的無意識的に働く(もっと直截にいえば仕事を干されて食えなくなるのだ)。同じアカデミズムにいても、音楽業界とは離れているので、著者はその心配がない。むしろ社会のさまざまなシステムを批判する研究者でもあるので、音楽をインサイダーとして書くことはない。なので、

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などの類書とは違うところにいる。これらの本では不要だった、歴史学や経済学、社会学政治学、哲学、文芸の知識が必要になる。小さい本なので背景の情報を十分に書いているわけではない。なので、読者は補足するために勉強するか、事前に勉強するかしておいたほうが良い。このブログに載っている本をカバーしておくと、本書はとてもおもしろくなるはず。また、クラシック音楽の有名曲は一通り知っていて、本書に登場する曲がいつでも聞ける環境を作っておいたほうが良い。吉田の前掲書の載っているものは網羅するとして、さらに1000曲くらいは集めておきたい。
 他の音楽史と同様に記述はグレゴリオ聖歌から始まる。そこから見えてくるキリスト教の権威や影響の分析はとても面白いのだが、このサマリーでは割愛(どうせ自炊していつでも読めるようにするのだし)。
 白眉は第3章から終章までの18世紀末から20世紀初頭までの分析。時代でいうと、フランス革命からWW1まで。歴史学などでいう「長すぎる19世紀」を扱う。近世が革命で終わり、近代が世界戦争で終了するまでだ。フランス革命(に影響された民主化)と産業革命で、市民が生まれる。この「市民」概念は極東から見ると、とてもあいまい。18世紀末から19世紀半ばにかけての「市民」は王侯貴族ではなく、聖職者でもない、立憲君主制のエリート公務員や士業(国家が資格を認定した人:医師や弁護士など)やギルドの構成員(徒弟修業を終えて独り立ちしたもの)のことだった。のちにブルジョアが加わる。農漁民や都市労働者や小規模自営業者などは除外される。当然女性も他国籍者も除外される。彼ら「市民」が権力と金と余暇を持つようになったので、それまでの社会エリートである王侯貴族や聖職者の趣味をまねしようと、彼らの文化を市民が模倣するようになった。でも、当時の文化を鑑賞し解釈し再現するには技法や知識を持たないといけない。市民はそんな修練を積んでいないので、わかりやすく・うるさく・新しがる物を望んだ。もっともよく答えたのはベートーヴェン。なので、彼の作品は民主主義・演劇的・資本主義・科学技術の市民社会によく合致したのだった。
(ここで堀田善衛の指摘を思いだそう。文化の担い手である階層は成熟し爛熟すると、それまでの文化に飽きて、「下々」の文化を取り入れ模倣し世俗化していく。パレストリーナやラッススが世俗音楽の旋律をミサにつかったり、ハイドンモーツァルトが貴族の依頼で「市民」の趣味を音楽化したり、20世紀初頭の作曲家がジャズや民謡を自作に使ったり。それらの文化の世俗化のあとに文化の「革命」が起こる。下々による上流社会の模倣と同時に、お上の世俗化もあったということは覚えておこう。)
ベートーヴェン交響曲第9番の解釈が秀逸。前3楽章が上級者向けの音楽。第4楽章が始まると、前3楽章のモチーフを邪魔し否定して、誰でも歌える参加できる。趣味のいいとされる上級者向けの音楽を聴かなくてもいい、市民みんなで歌える・歓喜を爆発させる音楽こそ大事というメッセージ、なのだ。)

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 ベートーヴェンがあまりに市民社会の欲望を表現してしまったので、以後はどうするかが課題になる。そのさい、音楽は金になり社会的名声を得られるので、音楽産業とアカデミズムが作られる。その結果、音楽の高級志向と閉鎖された専門家とありがたがる教養市民の共同体が作られた。20世紀の現代音楽・前衛音楽が大衆無視といわれる前駆賞状はすでに19世紀半ばにあったのだね。一方で、「市民」の範囲が拡大され、とくに選挙権が拡大することで、都市の中産階級も音楽の消費者や観客となり、彼ら向けのわかりやすく・うるさく・新しがるものも供給されるようになった。
 でもWW1によって、人間は世界の主人公ではないし、主体がしっかりあるわけではないし、資本主義と帝国主義で常に不安に駆られる。「市民」という政治参加することで自己実現を図る層や階級はもうないのだ、ということになってしまった。そこでまた西洋の音楽の在り方も変わってしまった。(本書には書かれていないが、音楽は行く先が見えずにふらついていくようになったが、教育や産業のシステムはむしろ強化され、規範やルールや学閥などは強固になったと思う)。
 著者はNHK-FMの「クラシックの迷宮」のDJを勤めている。2013年4月に開始された。2023年1月現在で放送回数は360回くらいと思うが、そのうち300回強を録音して折に触れて聞き直している。耳の記憶からすると、本書はこの番組のサマリーでもあって、ひとつの節で1回の番組になっている。番組愛聴者なので、すでに番組にでた話題が本書に書かれているなあと確認できた。番組ではある一時期、一地域、一人の作曲家に注目するので、本書のような通史が見えてこない。番組で知った点が本書によって線につながった。
 2018年刊行。

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小沼ますみ「ショパン 失意と孤独の最晩年」(音楽之友社) サンドと別れた後。ショパンが活躍する場所が消え、繊細な演奏技法は継承されなかった。

 ショパンの本は以下の二冊しか読んだことがない。
2014/02/25 遠山一行「ショパン」(講談社学術文庫)
2014/02/24 アルフレッド・コルトオ「ショパン」(新潮文庫)
 作者には「ショパン 若き日の肖像」「ショパンとサンド 愛の軌跡」の2冊が先にある。生涯を鳥瞰できるように3冊読むべきなのだろうが、残りの入手はむずかしそうなので、まずは最晩年を見る。

 ショパンの生涯を振り返ると、1810年生まれ。1830年ポーランド蜂起をきっかけにパリに亡命。ピアノ演奏で有名になり、1836年年上のジョルジェ・サンドと出会い、1838年からマジョルカ島で、41年からはパリで暮らす。しかしショパンとサンドは仲たがいして47年で別居。結核で衰弱したショパンは1848年パリ革命から逃れてイングランドスコットランドに行く。イギリスの気候は体に合わず、同年秋にパリにもどり、翌1849年10月17日に死去。享年39歳と7か月。同時期の作曲家と比べると短命であった。
 ショパンの作品を一生懸命聞いてきたわけではないので、おおざっぱな話しかできない。気づいたところ。

ショパンは公開演奏会(たぶんチケットを販売した演奏会)を生涯に30回くらいしか行わなかった。でも、上流階級のサロンに出入りして、非公開の演奏会を繰り返した。聴衆は100人もいない小規模で、音のよく響く貴族の部屋だった。そこでは大きな音を出す必要がなく、ショパンの繊細な演奏が映えた(逆に数百人入場するコンサートホールではショパンの音は十分に聞こえない)。48年のパリ革命のあと、貴族のサロンは縮小したか無くなったので、ショパンの繊細な演奏技法は継承されなかった。一方、コンサートホールで聴衆を圧倒する音量と技巧を披露できるリストやタールベルクらの演奏法はその後の音楽のパトロンになった中産階級の支持を受けて、さまざまな名人に受け継がれ20世紀につながる。

ショパンの名声があった1830-40年代、フランスで流行っていたのはベルリオーズマイヤベーアロッシーニというオペラ作曲家。ベートーヴェンも人気があった。共通するのは、明確なメロディ、力強いリズム、メリハリの利いたテンポ、多くの楽器と声を使った大規模な演奏集団、強弱のはっきりした演奏、長くて聴衆を高揚させる大作、多様な音色と豪華な舞台。市民階級の自由を後押しするような特長の音楽だ。しかしショパンがもたらしたのはその逆。溶けるような夢見るような曖昧なメロディと繊細な強弱、ひとりで弾く一台のピアノ、控えめで内省的な演奏、短くて余韻を残す小品。後のグノーやマスネ、フォーレドビュッシーなどにつづくエスプリの利いた「フランス音楽」のきっかけ(のひとつ)になった。

ショパンは亡命作曲家のかなり早い一人(ルネサンスバロックにもいそうだが、とりあえず近代の作曲家の範囲でということ)。単独で支援者のない異邦で生きることの困難さを示している。彼は主にレッスンで収入を得たらしい。サンドと同棲しているときは人気作家であるサンドの援助があったのかもしれない。サンドと別れると、収入が激減。いやな公開演奏会も引き受けなければならない(音量が小さくニュアンスを聞かせる演奏法なのでショパンはオーケストラとの共演を嫌がる)。体調の悪化はレッスンの回数を少なくすることを余儀なくされる。貴族や上流階級との社交をするので、服などに金をかけねばならない。死の直前に貴族夫人の援助がなければ、ショパンの死はより悲惨なものになったかも。根無し草でかつ独身で生きることの困難さが見える。

・1848年のパリ革命。サンドは共和主義に関心を示し、ショパン君主制に異論を持たない保守(サンドといろいろうまくいかなくなった理由のひとつ)。この革命にショパンは参加しようもなかったが、何が起きたかは
2014/11/14 カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」(岩波文庫)
2013/09/23 笠井潔「群衆の悪魔」(講談社)-1
2013/09/24 笠井潔「群衆の悪魔」(講談社)-2
2012/01/02 リヒャルト・ワーグナー「芸術と革命」(岩波文庫)
などを参照。最後のは、1813年生まれとショパンのほぼ同年代のドイツ人がこの革命に別の見方をしていたことがわかる。

SNSもネットもない時代。知識人や文人、芸術家は会うことで交通していた。晩年のショパンはイギリス訪問中に、サッカレーディケンズ・カーライルと会っている(だれも書き残していないので印象は薄かったのだろう)。パリにもどるとドラクロワ、アルカンらがショパンの家を訪ねる。

・1848年の革命とショパンの死は、西ヨーロッパの音楽が劇的に変換する象徴だった。
石井宏「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」(新潮社)-1 
石井宏「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」(新潮社)-2
小宮正安「モーツァルトを「造った」男」(講談社現代新書)

 

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 これは知らなかった。ショパンとサンドの関係も見直されているらしい(ショパンに恋愛感情は薄かったらしいとか)。

ショパンはゲイもしくはバイ男性だったのに、ポーランドという国はショパンの死後、手紙改竄や歴史修正をして彼をロマンスたっぷりの異性愛者に仕立て上げたこともついでに覚えててくださいませ。聖人級有名人がゲイであってはいけないだなんてカトリックの悪影響でしかない。

 



高木裕「今のピアノでショパンは弾けない」(日経プレミアシリーズ) のはショパン没後に大改良が加えられたため。西洋では聞き手も弾き手も少なくなった西洋古典音楽は維持できるだろうか。

 2015年の宮下奈都「羊と鋼の森」(文春文庫)を読んだときに、主人公の調律師見習いの青年はその先をどう作るのかわからないと思ったが、彼にふさわしいキャリアが本書にあった。思った通り、会社の用意したルートから外れて、より上の仕事を求め海外に行く。技術を磨いたのちに帰国するも地元に戻らない。仕事の相手は一流のプロピアニストであり、レコード会社のプロデューサーやディレクターであり、彼ら一流の容赦ない指摘に対応して信頼を得ていくのである。著者高木はのちに独立し、調律をするとともに、コンサートピアノをレンタルするビジネスを起業し、そこでも成功を獲得した。それは経済紙の目に届くことになり、クラシック音楽業界誌のみならずビジネス誌にも文章を書くようになるのである。小説の筋にするには世俗的にすぎるかもしれないが、ビジネス書(およびエグゼクティブ向け教養書)であれば十分な内容になるのだ。

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 タイトル「今のピアノでショパンは弾けない」はとても扇情的であるが、簡単にいうと今のピアノはショパンが没したころ(1840年代)から発達し、とくに19世紀後半にアメリカ企業によって大改良を加えられたので、ショパン(およびそれ以前の作曲家作品)を演奏するには向かない、ということに尽きる。本書がでるくらい(2013年)のころから、ショパン以前の作品を同時代の楽器で演奏するケースも増えているので、タイトルの指摘はいずれ常識になるに違いない。実際、ショパン作品だけを演奏するショパンコンクールでも、21世紀にはモダンピアノとピリオド楽器のふたつの部門が作られたのだ。
 ピアノの改良(すでにあるチェンバロフォルテピアノの改造からピアノができているので「発明」とは言わないでおこう)には、産業革命市民社会の存在が重要。硬いフレームを作るための鋳鉄、複雑な機構の組み合わせや調整、さまざまな素材の調達などには産業革命が必須であった。ラジオ・レコードのない時代に手軽に音楽を楽しむためにピアノを購入したりコンサートを聴きに行く余暇と金のある市民がたくさんいるからピアノ産業が起きて継続できた。さらに新しい楽器に興奮するプロのピアニストや作曲家が積極的にメーカーに注文を付けて技術改良を行った。良いピアノができると作品が増えて、作曲家・聴衆・メーカー・興業社などの関係者が幸福になっていく。そういう回転ができていた。

(いくつかをメモ。ピアノメーカーは当初ドイツ・オーストリアに多かったが、ピアニストや作曲家の注文にこたえたのはパリのメーカー。産業革命に遅れたドイツやオーストリアでは職人気質が強すぎ対応しなかったのだ。19世紀半ばからクラシック音楽新作の発表の場はパリに移る。なので演奏家や作曲家はパリを目指す。音楽の中心がドイツやウィーンではないというのはこういうところでもあきらかに。さらにアメリカのメーカーが参入し、一大市場を作った。アメリカでは巨大なコンサートホールを作ってたくさんの聴衆を集めたので、巨大な音量・粒立ちのよい音が必要になり、ピアノはそれにこたえるように改良される。20世紀以降はアメリカのメーカーが強い力を持ち、その製品がグローバルスタンダードになる。ヨーロッパとアメリカでは、20世紀半ばからクラシック音楽は聞き手も弾き手も少なくなる。メーカーは没落し技術者も減少。そこに参入したのが日本のメーカー。世界中で評判が高まった。でも、日本の製品はグローバルスタンダードにはなっていないようだ。実際、ショパンコンクールには複数のピアノメーカーが楽器を提供しているが、本選で日本メーカーの楽器が選ばれることはまずない。というように、俺は著者の体験談よりも、こういう楽器の歴史・技術史・社会史のほうが興味深かった。)

 著者はクラシック音楽(とくにピアノ音楽)が消滅する可能性を憂いている。ピアノがコンサートホール据え付けになっていて、ピアニストは好みと異なる設定になっているピアノに「合わせる」努力をするので、ベストフォームになることはめったにない。ミケランジェリホロヴィッツがやったように専用ピアノと調律師を持ち込めればよいのだが、やろうとするとコストがかさむので興行主はやりたがらない(というわけで、著者はプロピアニスト向けのピアノレンタル事業を起こす。国内ツアーの際に、この会社が運搬と設置を請け負う)。それにしても、ピアニストも聴衆も批評家も、かつて持っていた良し悪しを聞き分けられる力が衰えている。楽器の均一性を求める傾向もとどめがたい。ピアノのよさが損なわれている。そこを何とかしないと・・・と作者は嘆く。
クラシック音楽の演奏には、譜に書かれていないことが大事で、それは伝承が必要。でも音楽のグローバル化と聴衆・演奏者などの減少は伝承を失わせている、という感想は、森本恭正「西洋音楽論 クラシックに狂気を聴け」(光文社新書)と共有していそう。)

<参考エントリー>
2018/11/08 フレドゥン・キアンプール「幽霊ピアニスト事件」(創元推理文庫)-1 2008年
2018/11/09 フレドゥン・キアンプール「幽霊ピアニスト事件」(創元推理文庫)-2 2008年


 クラシック音楽の消滅という意見では、もうひとつ、楽器がなくなるという指摘もあった。とくに弦楽器が深刻。16-17世紀に作られた名器はあと100-200年程度しか持たない。それに代わる新作は作られていないという(20世紀後半の楽器は優秀になったそうだが、よい響きがでるのはあと2-300年先になるらしい)。著者は良品を提供していけば、マーケットはなくならないという考え。実際、クラシック音楽はヨーロッパから周辺諸国(19世紀)、アメリカ(20世紀前半)、次いでアジア(20世紀後半)とマーケットを拡大していった。さらに残されたフロンティアはあるのか、それとも既存顧客を囲い込んでいくのか。あるいは・・・。そのビジネス戦略でよいかどうかは話がでかすぎて、俺には意見はない。

〈参考エントリー〉 バイオリンがなくなるかもという危機については下記参照。

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