odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

高部雨市「君は小人プロレスをみたか」(幻冬舎アウトロー文庫) 「小人プロレスは人権団体に潰された!」はデマ。スカウトをやめて選手がいなくなり、興行会社の倒産で規模が小さくなった。

 小人プロレスは、全日本女子プロレスの前座として興業に組み入れられてきた。たぶん最盛期は1980年代の初頭で、所属レスラーは10名前後。茨城県で興業ポスターを見たことがあり、おかしなリングネームににやついたものだ。プリティ・アトム、隼大五郎、天草海坊主など。あいにくTV放送ができないことと、1980年代半ばのクラッシュギャルズ・ブームによって会場に来たティーンエイジャーの女性ファンにまったく受けなかったことがあいまって、1990年以降は選手2から3名の体制になる。
 多くの選手は、先天性の障害を持つものだった。そういう人たちを一本釣りのようにスカウトしてプロレス団体に集めていく。上記のような次第であり、メディアがなかなか取り上げなかったので、彼らの本音を聞きだすことはめったになかった(90年代なかばに週刊プロレスの須山と菅原の両記者がさかんに取り上げたが、イロモノ以上にはならなかった)。そういう世界にフリージャーナリストが入って、彼らの話をまとめたのだった。やはり、というかどうしても彼らの悲しい物語になってしまう。しかし、そういう彼らのプロ意識によって、最盛期のミゼットプロレスは非常に面白いものであったらしい。肉体を酷使したお笑いで会場を大爆笑で包んだという。その一方で、身体の酷使から新たな障害を生むことになり、通常のプロレス選手よりも早い年齢で引退することになる。あいにく彼らの身体は再雇用が難しく、別天地で成功したという人はいない。むしろ糖尿病による失明や脳圧迫による知的障害をもつなど、悲惨な状況がある。
 この本が出たころは、全日本女子プロレスのミゼットレスラーは3人だった(リトル・フランキー、角掛留造、リトル・ブッダマン)。その後、一人の選手リトル・フランキーが若くして亡くなった。直後に新しい選手プリティ太田が入団し、3名の選手で細々と活動していた(たいていの会場ではカードが組まれない)。2005年4月に全日本女子プロレスは活動を停止した。1990年バブル期の不動産投資の不良債権化したことが原因と見られている。日本最古のプロレス団体が終焉を迎えた。3人の選手はもはや活動する場所がないだろう。
 1997年5月の黄金週間に品川駅前特設リングで行われた全女興業で、メキシコから招いた選手といっしょの6人タッグをみることができた。面白かった。ライブを見ることができてよかった。また古本屋でビデオを買った(メキシコ選手と一緒に有刺鉄線爆破デスマッチをしようという内容)。DVDに変換して今でも残している。
2005/05/25

 小人プロレスの歴史を調べたので、あわせてお読みください。
odd-hatch.hatenablog.com