著者は戦前に「探偵小説芸術論」を唱えて、甲賀三郎と論争。今となっては論争の様子を読むことは相当に困難だと思うが、江戸川乱歩のいくつかのエッセーに様子が書かれている。あるいは、「深夜の散歩」において中村真一郎が「探偵小説は短編を拡大したものであり、その人工性は短編小説であれば許容されるもの。すなわち探偵小説は芸術である」という論でもって、探偵小説芸術論に決着をつけたと宣言したのであった。中村の言いが正しいのかどうかは知らないし、今の読者は芸術であるか否かは問題としないに違いない。まあそういう議論があった時代であったということを記憶しておけばいい。なにしろ映画を見ることが不良であり、小説を読むことは立身出世を妨げる反社会的な行為であると思われていた時代なのだ。
著者はこの作でもって、自説を立証したいと思っていた。まあ自序にあるように「失敗」であるのであった。なにしろ事件の犯人はだれかということは読者にはほぼ自明であるし、一方で登場人物の描きようは類型的であるのだし。
比良カシウにはいっていたと思われるストリキニーネのために死者が出、比良家は家宅捜査を受けた。その時、物置小屋から無産党の弁護士の射殺体が発見される。そして、殺害時と目される日に、社長の息子良吉は、モスクワへ向けて旅立っていた……。直木賞を受賞し、著者の作家的地位を確立した作品を、初版の体裁を復元して愛好家に贈る
人生の阿呆 - 木々高太郎|東京創元社
一応状況をまとめてみると、だいたい3つの話が同時進行する。まず陸軍中将を祖父にもつ一家がある。大臣になると期待されたところで急逝したために零泊した一家を息子が実業を起こし成功した。その主力商品である「比企カシウ」なる菓子にストリキニーネが混入され、2人が死亡。検査係の薬学士もストックの調査中に死亡するという事件がおきる。この企業では労働争議もあり、奇妙な弁護士(二重スパイ)が暗躍してもいた。それは社会的な醜聞になり、企業は傾きかける。これは主題ではないのだが、昨今の時勢では興味ある事件ではないかしら。毒物の混入に対して、警察が企業の過失を一担当課長の発言として発表し、企業は大損害をこうむるのであった。企業もこの危機にたいし、公式発表をすることもなく、内部でおろおろと会議をしているだけ。企業や組織の危機管理を見聞きしているものにとっては、企業も官憲も悠長で無責任な対応をしている。若い読者と経営者は見習わないように。
次には、この一家の因縁。上記の悪徳弁護士はどうも先代の中将といさかいをしていたらしく、長いこと根に持っているらしい。弁護士はしきりと労働争議団の弁護をかってでて、なにかの陰謀をたくらんでいるらしい。さらに困ったことに、この弁護士の妻の妹は一家の三代目である主人公の良吉と恋愛関係にあった。茫洋とした三代目は周囲に流されるまま、左翼運動に参加し、すぐさま逮捕拘束される。またこの一家の祖母は三代目の孫を溺愛し、彼のためにいろいろ便宜を図るのでもあった。
最後の小状況は主人公・良吉の物語であって、婆やの使用人を孕ませた疑惑があり、数年間の洋行を命じられる。当時のこととて、ウラジオストックからのシベリア鉄道乗車の旅が詳しく紹介される。そしてモスクワでかつての愛人である弁護士の妻の妹(まどろっこしいな)に再会。逢瀬を楽しむどころか、「あなたは人生の阿呆」になってはいけないの言葉を残して自殺する。
とまあ、いろいろ複雑な状況があり、一方警察と法医学教授の捜査も語られるのである。わずか240ページという短い枚数でこれだけを詰め込んではどうにも詳細を書き込むことができず、比良家と高岡家(弁護士)の因縁はそれこそ警察調書を読むような味気なさ。たぶん作者の主題は、良吉という優柔不断で社会性に乏しい男が自立するまでの物語(すなわち祖母の庇護から脱出し、愛の挫折を克服して、父から譲渡された工場を経営できるようになるまで)を書きたかったのだろう。その物語を、当時最先端の文学運動であったプロレタリア文学の目と手法で描き、ついでに探偵小説を盛り込んだのが敗因だな。ラストシーンには中目黒駅での張り込み、共産党員か労働組合員の街頭レポが描かれるのだが、それは小林多喜二「党生活者」あたりでかかれたことによく似ているのだ。むしろ高岡弁護士殺人事件なぞ書かず、比良カシウ毒物混入事件だけにしぼって良吉の苦悩を書いたら、武田泰淳「快楽」になったのではないかと愚考する。思いあふれて腕の足りなかった失敗作。途中のシベリア鉄道の旅に挿入される写真を見るのは楽しい。昭和11年1936年当時では、ソヴェトは地上の楽園、人民の美しい集まりと見る人も多かったからね。写真に映るロシアの人びとの表情と風景は興味深いよ。
小林多喜二「工場細胞・オルグ」(青木文庫) - odd_hatchの読書ノート