odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

森博嗣「冷たい密室と博士たち」(講談社文庫) 理系の大学生を主人公にした作者と出版社のマーケティングが成功した小説。

 「同僚の喜多助教授の誘いで、N大学工学部の低温度実験室を尋ねた犀川助教授と、西之園萌絵の師弟の前でまたも、不可思議な殺人事件が起こった。衆人環視の実験室の中で、男女2名の院生が死体となって発見されたのだ。完全密室のなかに、殺人者はどうやって侵入し、また、どうやって脱出したのか? しかも、殺された2人も密室の中には入る事ができなかったはずなのに? 研究者たちの純粋論理が導きだした真実は何を意味するのか。」

 初出は1996年。インターネットの創世記。niftyや何とかネットで掲示板や電子メールを使っているころ。大学はまだLANがひかれたばかりでメールサーバーは自前で構築。だから、システム管理が研究室単位で、しかも院生が責任者だったりした。リアルタイムで読んだ人にとっては、ここに記述された風景は最先端(テクノロジーにおける)であったわけだ。一方で、大学の研究室は旧態依然とした運営をしているのだが、そのことは世間で知られていることではなく(それこそ「象牙の塔」であるわけで)、この本に「リアル」に書かれていることは新鮮な驚きをもっていた。マンガの「動物のお医者さん」で獣医学部がリアルに描かれ、「ハチミツとクローバー」で美大が書かれ、「のだめカンタービレ」で音楽大が書かれ、それぞれ人気を博していたのと同じ。ここには、読み手が同世代で、作品と同じような環境にいることにも注目しておくか。自分の知っている世界が書かれていれば、親近感がわくから。おまけに、とんでもない資産家が登場し、通常を離れた個性(キャラクターというべきだよな)をもっているとなると、それは半大人のお伽話で、生活世界のあこがれにもなる(だから主人公たちの二次創作が作られる)。
 こんな具合に、設定とキャラクターが大学生(1990年以降のミステリの主要な読み手)にしっくりきている。作者と出版社のマーケティングが成功した例、ということになるのだろう(新本格に該当する綾辻とか法月とかナントカとかが学生を主人公にしたミステリを作って、それなりの成功をしている先例があった。ただそれらは文系の世界で、理系でそれを行ったのはこれが最初になるのか。彼ら以前の青春ミステリになると、アウトロードロップアウトが主人公になってしまう。1970年代の空気の反映なのだろうね)。
 他にも、作者の新しさがあると思うけど、いまのところこのくらい。いずれ何か思いつくかな。
 密室のなぞ解きは、物理的なトリックではなく、複雑なプロットによる。人物の動きが錯綜しているので、犯人あては面倒臭くなって途中で放棄した。