odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

城平京「名探偵に薔薇を」(創元推理文庫) 世紀末に戦前探偵小説類似の小説を書くのは現代にミステリをすることに恥ずかしさを感じているかのよう。

 聞いたことのない作家。第8回鮎川哲也賞最終候補作に手を入れて、この文庫版で1998年に出版されたらしい。そのときに作者は25歳だったようで、さまざまな設定は作者の身近からの発想なのだろう。語り手は大学院生で、名探偵は学生。中小企業の社長は高価な輸入ワインを飲み、得体のしれないブローカーは体から臭うような異様さを持っている。こういうキャラ造形はそのような若さにあるからこそ生まれたものだ(人間観察の乏しさが類型を求めるようなところ)。プチブルの高級自宅はテレビドラマのセットのように生気に乏しく、貧乏学生と教授のいる大学の研究室は少ない描写なのにリアルであるところも。

 前史がある。戦前に海外留学もしたようなマッドサイエンティストが「小人地獄」という究極の毒薬を作り、微量を販売して研究費を稼いでいた。あるとき、マッドサイエンティストは殺され、毒薬は行方不明になり、製造法は失われる。以来、三十年以上もたってこの事情は忘れられたようである(という設定からすると、この事件が1960年代後半になるが、それならどうにか成り立つか。1960年代半ばなら、怪奇大作戦「24年目の復讐」、岡本喜八「殺人狂時代」など、このマッドサイエンティストと同じ欲望と執念を描いたフィクションがあったころだし。)。

第一部 メルヘン小人地獄 ・・・ 表題の文書がマスコミに届けられる。そこに書かれたことと同じ事件が中堅出版社の社長宅で起きる。続いて別人が文書のとおりに殺される。社長宅の家庭教師をしていた語り手に、使用された毒薬「小人地獄」の製造にかかわったという情報が届けられる。名探偵の推理によると、最後の殺しのターゲットは社長の令嬢であるはず。おりしも、製造にかかわったというブローカーがゆすりに来た。

第2部 毒杯パズル ・・・ 第1部の事件が起きてから数年後、藤井家は父が再婚して新しい家庭になる。円満に見えたある日、「小人地獄」が紅茶に混入して、新しい家庭教師が殺されてしまう。家に保管されていた毒薬が使われていたが、ポットに入れた人物がいない。なぜ、どうやって入れたのか。前の事件の関係者で今は藤井の会社の社員になった元大学院生が名探偵を呼ぶ。

 

 というサマリーを作った後に、ああこれは先行するこの作がある、この趣向はこっちの作だ、と指摘するつもりだった。ストーリーだけではなく、タイトルもある有名作のパロディになっている。それも指摘して、なんと稚気に満ちた作品だろう、探偵小説はこのようにしか成り立ちえないのかと詠嘆するつもりだった。
関係ありそうな作品
都筑道夫「なめくじに聞いてみろ」、クイーン「フォックス家の殺人」、バークリー「毒入りチョコレート事件」、フォークナー「エミリーに薔薇を」

 ところが作家のデビューのいきさつを知っている人による解説を読んで、ひっこめねばならないことを知る。本作がある探偵小説コンテストに応募された際に、高名な探偵小説作家が同じ趣向の先行作があることで高評価に難色を示したというのだった。解説によると、もともと推理小説に興味をもたなかったものがミステリーの技術を持ったほうが作家になるにはよいというアドバイスがあって、大量のミステリを読み、メモを取っていったという。探偵小説、推理小説、ミステリに愛着を持つのではなく、小説作法の技術習得をもくろんで書いたのだった。そういう態度からすればオリジナリティにこだわることはないだろう。そのうえ、きわめて古めかしい文体に、現在では存在しないような家族構成を描いているのも、現代にミステリをすることに恥ずかしさを感じているように思えた(なので、ここはブッキッシュな話題にするが、本作は状況と言いキャラといい文体と言い、戦前の探偵小説にそっくりなのである。小酒井不木「疑問の黒枠」、浜尾四郎「殺人鬼」、蒼井雄「船富家の惨劇」などを思い出した)。
 というわけで、作品批評はここまで。感想を書くことをためらわせることになったのは、もしかしたら作者のもくろんだことであるかもしれず、作中ではなく、読者にしかけたこのトリックのほうが目新しいのではないかと思ったのだった。意地悪い作者だね。

 代わりに、平成に登場した探偵小説作家が「名探偵」にこだわるとこに関心をむけよう。作者が想像したのは瀬川某という孤独な女性(彼女の描写や知り合いとの関係性などに見られるミソジニーはおいておく)。彼女は探偵になるべくして存在していて、人嫌いなのに、他人は彼女に知恵を求める。頭を働かせて謎を解くことは彼女の快感であるので、いやいやながらの探偵をする(いくばくかの報酬は目的のない放浪生活を可能にするので止められない)。しかし彼女の知恵は常勝ではあるが、無敗であるわけではない。一度の失敗が彼女を傷つけている。失敗を繰り返すまいと彼女はかたくなになる。
 その失敗は犯人を暴くことによって、誤った人物を傷つけてしまったということだった。彼女は「真実」の側に立とうとするが、その立場に固執することがつねによい結果をもたらすわけではない。そのようは全能ではない「探偵」が事件に介入してもよいのか、しかし「探偵」であることを期待されている以上やめるわけにはいかない。いつまで落ちたら転落する切っ先を走り続けねばならないのか。とまあそういう問題。
 これは別に目新しいものではない。すでにエラリー・クイーン法月綸太郎が苦悩し続けている。
 それに対する批判はこの二人のミステリを読んだ感想で言ってきた。俺の意見は、
1.そのような責任を法治主義の国家で個人が負ってはならない。まさに個人は間違えるから、集団の知で対応し、責任を分散して、再発防止ができるシステムにしなければならない。
2.探偵は法を執行するものではないし、「真実」の当否を決めるものでものない。それは法廷で行われるべきもの。関係者を集めて、その前で「真犯人」を告発する行為をするべきではない(あまたあるミステリがそういうシーンで終わるのは、前近代のほうのシステムが未完成なころのなごりと、カタルシスを得るためのドラマツルギーからの要請)。
3.「誤った犯人の告発」を問題にする際に、すっぽりと抜け落ちているのは犯罪被害者の尊厳。犯人が示した謎を探偵が説くというゲームに固執するから、探偵は被害者のことを軽視する。ことに第2部の事件において著しい。被害者の尊厳を無視してまで(はすっぱな女性であるとか、評判の悪い道楽むすこであるとかの理由で被害を受けたことを相対化する)、犯人と探偵の自尊心を守ろうとする。それは正義でも法治でもないよね。
4.というわけで、個人の探偵が犯人告発をするという行為は私的制裁を行うことになるのだよ。それがだめなのは、ロック「市民政府論」に書いてあるので参照。400年前の政治哲学者の主張に加えることは俺にはない。
 正義や善をきちんと考えないまま、探偵の苦悩などというフィクションがリアルな問題であるかのように書くのはよろしくない。ホームズやポワロやクイーンがやっているのであるけど、あれはフィクションであることが明確にされているからね。(それを韜晦するためのグロ描写や擬古文風の古い文体であるのかもしれないが。)
 wikiをみると、探偵小説はこの一作だけで、あとは別のジャンル小説で活躍中とのこと。

 

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