odd_hatchの読書ノート

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安野光雅「ZEROより愛をこめて」(暮しの手帖社)

 1986年ころから88年にかけて「暮らしの手帖」に連載された。個人的な事情を述べると、当時在籍した会社ではこの雑誌を定期購読していて、毎月自分のところにまわってきたのだった。この連載と黒田恭一のCD案内が楽しみだった。

 さて。当時還暦を過ぎた著者が、高校生と思われる少年・順くんにあてて書いた手紙という形式。あとがきを読むと、著者の友人が若くして亡くなり、残された子供の精神的な養父であろうとしている気持ちで書いていたらしい。本当のことかどうかは詮索無用。この設定は作中にもあるように吉野原三郎「君たちはどう生きるか」(岩波文庫)をモデルにしている。さかんに作者は照れているが。
 もちろん、著書の意図は別のところにあるのであって、吉野のほうが少年に社会関係(経済的につながった個人とか労働の意義とか)および社会のモラルを考えさせるものであった。ここではもっと抽象的な「ZEROから考えること」そして「自我をいかに発展させるか」が主題になるというのかな。タイトルの「ZERO」はここから来ていて、では「ZEROから考える」というのはどういう方法かというと、我々の考えは先入観に刷り込まれていて、正しくもののを見聞き考えているつもりでもそうではないことがある。視点や立場を変えたとき、見方が変わることはよくある。もしかしたら別の見方のほうが正しいかもしれない。この例証として「泣いたアカオニ」や「走れメロス」の読み替えを提案しているのが面白かった。いずれも美談ではあるのだが、ではこれを「やらせ」とか「他人の好意をダシに自分を正当化すること」とみてみたらどうなのかい。あるいはその事件の周辺にいる人はその行為を別のしかたで処理することができないものかしら。こういう読み替えは「ハムレット」や「ベニスの商人」でも行われる。いずれも主人公はもしかしたら身勝手であり、悪人とされる人たちに理があるのではないかというような指摘。
 そのあとデカルトパスカルなどが紹介されて、神学が哲学に移り変わるときにどういう思考の変換が行われたかを紹介している。ほかにもファーブル、石川啄木高山樗牛、藤村操、原口統三新渡戸稲造菊池寛などの話がでてきて、では次回までの宿題として読んでおいてね、というのだから、なかなか高等な要求をしている。これを最初に読んだとき自分は20代半ばを過ぎていたけど、ほとんど読んでいなかった(いまでも読んでいない)。まあ、ぼちぼちがんばろう。
 作者が画家や挿絵で有名な人で、芸術の側にたって考えているためか、ところどころの「科学」や「事実」に関する説明はいくつか腑に落ちなかった。たとえば、事実と真実をわけるのは納得するとして、無数の事実は情報に還元されて、そのエッセンスで真実に達するというような。この背後には事実を認識するのはどのような方法か、事実から情報に還元する仕方やルールはなにかなどいろいろ議論はあるとして、自分が問題にするのはこの図式で「真実」に達するのかとか、ここでいうのは「科学的な「真実」に限定されているのではないか(芸術や宗教の「真実」の把握の仕方とは別ではないか)、それをいっしょくたに「真実」とするのはどうよ、ということ。
 すこし些細なところにこだわりすぎたかな。「君たちはどう生きるか」のような読み物らしさはないので、後半は散漫で退屈。