odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ゴジラを巡る視線について

1.ゴジラ映画をまとめてみ直すと、ゴジラを見て悲鳴を上げる人は数多いが、河内桃子に勝る人はいない。(沢村いき雄、大村千吉、蛍雪次郎の達人に敬意を表しつつも)

※ しかも年を経るごとに悲鳴が下手になっていると思うのだ。

2.ゴジラが最初に顔を見せて咆哮をあげた直後に、恵美子の悲鳴のアップが重なる。その瞬間に、ゴジラは人間の投げかける意味を受け取める存在に変化した。それまでは排除するべき異界の存在。

※ このたがいみは一瞬のうちに起こり、かつ女性の側からすると一方的な受け入れになっている。理由不明でゴジラや怪物に選ばれた、ゴジラや怪物が女性に憑依したというのが大事。

※ この瞬間、ゴジラの咆哮顔と恵美子(河内桃子)の悲鳴顔が双子のように似ているのが、重要。視線のたがいみと、容貌の酷似があることで、第一作ゴジラは排除されるべき異物から、意味を受け入れる存在に昇華したのだと思う。まあ、観客は河内桃子にほれるようにゴジラに一目ぼれしてしまったのだ。間に河内桃子を挟むことによって。

3.重要なのは、ヒロインとゴジラが視線を交し合ったこと。彼らの視線が絡み合うことで、ゴジラは人間に意味ある存在になった。視線が絡み合わないと、存在の変化は生じない。

4.たとえば「キングコング」1933のフェイ・レイは悲鳴で有名になったのだが、彼女はコングから身をそらし顔を背け、見つめあうことはない。一方、「エイリアン」のシガニー・ウィーバーはエイリアンから目を背けない。

5.その差が「エイリアン」と「キングコング」の、昭和ガメラと「ゴジラ」の違い。排除されるしかない異界の存在と、意味を問いかける超越的な存在。媒介になるのはヒロイン(というか巫女)と怪物の視線。

※ おかげで人間に近しい「キングコング」は女性を誘拐、監禁する変態野郎になってしまい、女性を強姦する爬虫類風の「エイリアン」はその存在の意味を問いかける超越性を持ってしまった。

6.そうやってゴジラはヒロインの視線を受け入れ、人間の投げかける意味を受け取る役目を負う。でも、ゴジラは決して意味を投げ返さない。そこらへんはモビィ・ディックと一緒。

※ 怪物が受け入れる視線の持ち主は、年少でもだめで、年増でもだめ。微妙な年齢層でないといけない。もうひとつ、彼女らは人間の恋人や夫を持っていてはいけない。まあ、そういう点で彼女らは巫女にたとえられるのです。
(先取りするけど、平成ガメラ3の彩名がたがいみをしそこなったのは、恋人がいるからだね。)

7.ゴジラ1954のあと、ゴジラと視線を交わすヒロインはゴジラ映画に出てこない。ヒロインはまなざしをゴジラには向けなくなったし、ヒロインが視線を向けたときにはゴジラは別の方向を向いている。

※ ようやく現れたのが「ゴジラ×メカゴジラ」2001の釈由美子。その視線の交し合いがあったということで、平成のシリーズではほとんど唯一、自分には高評価。ほかの映画では女性はゴジラではなく、別の男に視線を向けている。

※ 何度もゴジラ映画に登場する水野久美がたがいみをしているかも、と指摘された。まあ、あの人は人間ではなく異星人だし、宝田明久保明やニック・アダムスなんかを見るほうに夢中な大人の女性ですからねえ。

※ おなじく平成シリーズに登場するゴジラと交感する少女たちというのもこの資格はない。彼女らは、ゴジラに選ばれたという特権的な瞬間をカメラに捕らえられていない。映画の男や観客は彼女らの資格を疑う。

8.ヒロインとの互い見ができなくなったので、代わりに男たちがゴジラに視線を向ける。決して返事をしない存在に対して意味や質問を投げかけるという不毛さ。そうしなければ不安で仕方のない、問いかける側の存在の耐えられない軽さ。

※ 「ゴジラ ミレミアム」1999が典型的なゴジラへの男の熱愛の物語。村田雄作も阿部寛もすぐ横の女性の視線を一切無視し、ゴジラと視線をあわせようと走り回る。でもつれないゴジラ。ようやく視線があった時、ゴジラの返したのは右手のパンチ。

9.男の問いかけにはゴジラは暴力で返す。そのために命を失った男たちはたくさんいる。それでもエイハブ船長のようにゴジラを追いかける男たち。彼らには憑依は降りてこないし、超越的なところからの回答も来ない。

※ それは観客も同じ。映画でカメラはゴジラを真正面から見据え、観客に視線を向けて咆哮する。観客とゴジラのたがいみがあった。それで観客はゴジラに意味を問いかける。「ゴジラよ、お前は何者か」と。ゴジラ(とスクリーン)は決して返事しない。スクリーンに「終」が表示されたとき、多くの映画でゴジラの去って行く背中をみることになる。観客はゴジラにふられてしまったのだ。

10.「大魔神」と平成ガメラはヒロインと魔人・怪獣は視線を交わす。その瞬間をみたので、魔神やガメラは超越的な存在、意味を問いかけられる(しかし返事をしない)存在に昇華された。

※ 「ロスト・ワールド」「原始怪獣現る」などには、怪物と接触するくらいに近づいた女性はいない。「キングコング対ゴジラ」ではキングコングに囚われた女性は失神してたがい身していない。多くのモンスター映画、特撮映画でたがいみは起きていないのだよねえ。

平成ガメラ3は視線をそらす少女がガメラと視線を交し合うまでの物語といえる。

※ これは強引だったな。ガメラ3の彩名はガメラと視線を交わさなかった。イリスとはエロティックな視線の交し合いだったのだけど。彩名もガメラとたがいみをしそこなったので、ラストシーンでガメラに意味を問いかえる。「ガメラよ、お前はなぜ私を助けたの?」と。その問いかけには決して返事は返されない。

ま、要するにゴジラ1954と平成ガメラシリーズは傑作だお、といいたいだけ。