odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

イアン・ワトソン「マーシャン・インカ」(サンリオSF文庫)

 タイトルの「The Martian Inca」を無理やりに邦訳すれば「火星(人)化されたインカ」とでもなる。キーワードは「火星」と「インカ」。

 米ソ(書かれたのは1977年だからね)で惑星開発競争が盛んになり、アメリカは火星で「ウォーミング・パン(加熱装置)」を起動して、岩石や極冠にある氷を水に変えて生物が生存可能にすることを目指していた。そのためにフロンティアズマン号を飛ばしている。先を越すためにソ連無人の探査衛星を飛ばし、火星の土を回収する計画を進めていた。その成功直前に探査衛星は軌道を外れ、標高4000mのボリビアの山中に落下する(ソ連の衛星は高度4000mでパラシュートが自動的に開くように設計されていたが、それが働かなかった)。現地にいたのは、錫鉱山で働くインカの末裔たち。彼らは、火星の土に触れると、硬直し、一見死んだように見えた。しかし、生体機能を極限まで絞り込み、脳だけが機能している。彼らは一週間の睡眠の間、自分の半生をジグソーパズルのようにばらばらな断片として振り返り、同時に民族の集合無意識のようなイメージを想起する。目覚めたとき、彼らの意識は拡大して過去と未来を幻視したヴィジョンをもっていた。そして、インカ帝国の初代王の末裔であるジュリオは予言者めいた言説をすることで、インカ帝国の復活と独立を宣言する(当時ボリビアは軍事政権とそれに対立する左翼ゲリラの抗争があって、政治的に不安定だった)。小説は彼らの失敗した独立運動を描く。
 一方、フロンティアズマン号は予定通り、火星に到着。当初は乗組員3人全員が火星に降り立つことになっていたが、ボリビアの事件を知ったので、2名だけを下すことにした。「ウォーミング・パン」の準備と周辺調査の最中、科学者が事故で火星の土に触れ、インカ人に起きたことと同じ硬直が起こる。彼が復活したあと、その時の経験を語るのだが、よくわからない説明でした。多次元がどうの、時間には複数の次元があるとか、まあそんな感じ。それは彼の幻視するヴィジョンとして表れていて、どうやら宇宙的な「生命」みたいなものに参与する段階に来たのだと考える。参与するのは多数であるべき(人間が個体の群れから群体みたいになるというイメージかな)と考えて、もうひとりの乗組員にも故意に火星の土に触れさせる。そうして意識が拡大した二人は「ウォーミング・パン」による火星のハリケーンに備えると同時に、火星の土の解明に取り掛かる。実験によると、火星の土は自己組織化する鉱物の集まりみたいで、個体をさまざまに変容させ(地球でにているのは粘菌)、自己複製と個体の拡大に向かうようだ。それがある程度の大きさになるまで観察したとき、ハリケーンは着陸船と実験設備を吹き飛ばし、行方は分からない。
 インカがでてくるのは冒頭のSF設定にあるのだろうが、同時に、言葉によらないコミュニケーションをしていた部族の記憶が反映しているのだろう。ジュリオや科学者(ユージン・シルバーマン)が火星の土に触れて意識の拡大を経験するとき、言葉ではなく記憶の画像イメージが頭の中に充満するのだから。でも、拡大した意識の持ち主がほかの人にヴィジョンを共有させようとすると、言葉を使わなくてはならなくて、たぶんそれは人間という存在の拡大ないし進化を妨げる原因のひとつになっている。火星の土は、その障害を取り払う触媒みたいな役目を果たすらしいが、それはたまたま人間と接触したときにあらわれる効果の一つで、火星の土ないし生物の目的ではない。まあ、人類は宇宙的な存在への連鎖からは疎外されているのかもしれない。そこまでは作者はいっていないが、ふたつの失敗した意識の拡大実験から、自分が読み取るのはそういうこと。パスカル的な宇宙の孤独の中にいて、宇宙的な意思とは無縁なのかもしれない。
 小説は、インカのポトラッチのようなフィエスタと武装集団の独立と弾圧が描かれ、一方では地球-火星間の宇宙船内の会話と惑星開発プロジェクトが描かれる。この対比が強烈で、鮮烈なイメージになるが、いかんせんインカの土地勘と風習への無知があるので、楽しむには程遠く、生硬な科学的説明も読むのがつらい。読者を選ぶなあ。失敗作であることを除けば、とても挑発的な佳作だ、と思いたい。