odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

イアン・ワトソン「スローバード」(ハヤカワ文庫) 1967年から数年間日本に滞在したイギリス人作家の短編集。キッチュな未来風景に意識の拡大と認識の共約不可能性をぶち込む。

 イアン・ワトソンは1943年生まれのイギリスの作家。1980年代には、このblogで取り上げた3冊だけ翻訳出版された。そのあと、「黒い流れ」シリーズがでた。他は「エンベディング」「オルガスマシン」がでているくらい。よく比較されるクリストファー・プリーストのほうが紹介されている(と思って調べたら、絶版・品切れが多いのね)。1970年代の長編がアイデアとイメージと思弁のほとばしりが最優先されて、読む面白さを後回しにしているところがあった。それが魅力と反発を同時にもたらしたものだけど、この短編集ではキャリアを積んだあとのも収録されていて、話の面白さを優先するのがたくさんある。

「銀座の恋の物語」Programmed Love Story 1973 ・・・ 今は昔の西暦2000年にあった銀座のクラブ「女王蜂」のキャストの話。客の好む人格に変換するシステムがあって、キャストは様々な人格になったそうな。女性が横でおしゃべりの相手をするクラブやキャバレーはほかの国にはないので、作家には珍しかったとみえる。

「我が魂は金魚鉢を泳ぎ」My Soul Swims in a Goldfish Bowl 1978 ・・・ 咳の止まらないエリートサラリーマン、咳といっしょに口のないオタマジャクシを吐き出した。それは主人公の魂だと妻は言う。魂を金魚鉢にいれておく。ヤッピーの冷ややかな生活の皮肉かな。

「絶壁に暮らす人々」The People on the Precipice 1985 ・・・ その世界は絶壁だけ。頂上は見えず、谷底も見えない。人?は絶壁にしがみついている。あるとき、下から靄がのぼり、絶壁は両側を閉ざしてしまった。作者によると、「ある国の政治体制を皮肉ったもの」だそうだが、どこだろう。永遠に移動していないと存続できない資本主義体制かな?(たぶん違う)
あとマダガスカルのカンムリキツネザルはまさにこのような絶壁の針山に暮らしているという。
http://www.nhk.or.jp/wildlife/program/p188.html

「大西洋横断大遠泳」The Great Atlantic Swimming Race 1986 ・・・ 1990年に行われたサハラ飢餓救済の遠泳大会。当時の社会状況を茶化したバカ話。

「超低速時間移行機」The Very Slow Time Machine 1978 ・・・ プリースト編「アンティシペーション」に収録された代表作。

「知識のミルク」 The Milk of Knowledge 1979 ・・・ 2090年から2063年に戻された少年が、その間の災厄(核戦争とかパンデミックとか)を回避するために駆けずり回る。でも彼の時間は跳躍して、結末のないまま次の状況に移ってしまう。ついには、ある町で時間が止まった。確率的にしか存在できない「生物」と人間の最初の接触。人間の存在は確定的であるゆえに、彼らの垂涎の的なのだ。少年の成長物語が太陽系規模の侵略になり、ついには宇宙サイズの時空間を考察する思弁小説になる。最後は宇宙の終わりを幻視するが、それでも希望を持つのは作者が若いからだろうな。

「バビロンの記憶」We Remember Babylon 1984 ・・・ アリゾナ砂漠にある自己発見総合大学に併設された<バビロン>の都。学生で夫婦の二人が研修で訪れ、過去と現在が入り乱れた都を散策する。神聖娼婦が登場。新潮文庫編集部編「タイムトラベラー」(新潮文庫)に収録。

「寒冷の女王」 The Mistress of Cold 1984 ・・・ <冷戦>は世界を氷に変え、地下に住む数千人のほかは死滅した。「寒冷の女王」を上に抱くその王国は敵の拠点を絶対零度に冷やす作成を開始。それは世界の終焉。のはずだったが。

「世界の広さ」The Width of the World 1982  ・・・ 宇宙が膨張しているように、地球も膨張しだした。同時に行方不明の人が増えた。ハーメルンの笛吹みたいに、人は「あっちへ行っちまった@金田byAKIRA」のだ。それに取り残されたヤッピーのドタバタ騒ぎ。

「ポンと開けよう、カロピー」On the Dream Channel Panel 1985 ・・・ 同じ町に夢の中で食べ物のCMを見る連中が13人いる。みんなで集まって念じたら缶詰が降ってきて、光の環を通ってケーリー・グラントブリジット・バルドーと素敵な宴会をする。しかしそれは長続きしなくて。飽食の時代にさらにうまいものを食いたい欲望の行く末は、という寓話かな。

「アイダホがダイヴしたとき」When Idaho Dived 1985 ・・・ たぶん核戦争後の退行した地球。砂に住む生き残りはアイダホという潜水艦に集まっている。そこで200人の孫たちを持つ長老が昔、アイダホをダイブさせた話を語る。核戦争後の雲が切れ、彼は星にダイブすると宣言する。なんとも苦い。星を目指す改革は、過去を知らない若者の現状維持の勢力に負ける。

「二〇八〇年ワールドコン・レポート」The World Science Fiction Convention of 2080 1980 ・・・ 退行した地球にもSFファンは残っていた! 西部劇の時代のファンの集いのようだね。こんなところでフィリップ・キュルヴァルやミシェル・ジュリの名前を聞くとはねえ(どちらもフランスのSF作家でサンリオSF文庫に翻訳あり)。
フィリップ・キュルヴァル「愛しき人類」(サンリオSF文庫) 
ミシェル・ジュリ「不安定な時間」(サンリオSF文庫)

「ジョーンの世界」Joan's World 1988 ・・・ 異星人がやってきて静止軌道上にとまると、世界の愚行(ミサイルを放つとか核爆弾を爆発させるとか)をできないようにした。それから地球人は歴史が終わり、静かな終焉に向かって涅槃の境地に入る。14歳の女の子に両親が地球をプレゼントした。それは見えないけれど、手に触れることができ、人の触った分の重さが加えられる。それは彼らの希望になり、世界再建の動きになっていく。マキャモン「スワン・ソング」のガラスの環を思い出させせる復興と再建の物語。まあ、作中人物の言うように危険な観念の謂いであるかもしれないが。ともあれ、人が元気を回復したのは確か。

「スロー・バード」Slow Birds1983 ・・・ 地球にはときおりきまぐれに円筒形の金属体が現れ、ゆっくりと移動し不意に消える。ときにそれは爆発し周囲をガラス板に変えた。人はそれを「スロー・バード」と名付ける。少年はスロー・バードの意味を探ろうとして行方不明になり、その兄はいさかいの末スロー・バードにくくりつけられる。長年の月日がたち、兄弟はそれぞれ啓示を得て、世界を救う別々の方法を人々に説いた。


 この人の経歴で面白いのは、1967年から数年間日本に滞在したこと。彼はその当時の東京をSF風な未来都市にみていた。自動販売機やタクシーで見られるコイン・テレビ、遅効性の毒が充満する大気(光化学スモッグのこと)。テレビの怪獣映画、アドバルーン。多発する自然災害でひびわれるビルと新規に建築されるビル。あらゆる国籍の人が混在し、世界中のニュースが一日中流れる。その風景から彼はSF的発想をみたそうだ。「銀座の恋の物語」がその例で、ギブソンニューロマンサー」の10年前。その時代に同じ町にいたこの国のネイティブな人は彼のように「未来」とはみなかったのに。異邦人の目で都市を見ることが発想の多彩さと柔軟さを生むのだね。
 そういうキッチュな未来風景に、当時の先端学問知識で、意識の拡大と認識の共約不可能性をぶち込んだのが、イアン・ワトソンの小説。この中では「超低速時間移行機」が初期長編のようなとんがりぶりで、自分には一番面白かった。1980年代のバカ話やうちわネタやファンタジー風なのはちょっと。この人のでなくても、別の人のアイデア小説のほうがおもしろいんじゃないかと違和感があった。
 その一方で、人類と未来についてはシニカルでペシミスティック。長期的な停滞とエントロピー極大化による熱死は回避不能。他者や異星人とのコンタクトはあっても、共通言語や記号がないからコミュニケーションは成立しない。地球人は宇宙に孤立されて、もしかしたらあるかもしれない宇宙全体の意思や運動には参加させてもらえない。ワトソンの小説にはそこにこういう感情が流れている。いくつかの希望を期待させるもの(「知識のミルク」「ジョーンの世界」など)でも、はかなさや物憂さが漂っている。アメリカのSF小説にある能天気なほどの明るさと楽観がないのも、継続した読者を生まない原因であるかもしれない。