odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

クラウス・シュライナー「ブラジル音楽のすばらしい世界」(ニューミュージックマガジン社) タンゴやボサ・ノヴァの熱心なファンはブラジルを除くとドイツと日本にしかいないといわれる。ドイツの民俗音楽研究が本気だした成果。

 この国の敗戦がもたらしたもののひとつは、外国の音楽がどっと入ってきて、新たなファンを獲得したこと。15年戦争中に禁止されていたジャズほかが演奏できるようになった、占領軍の軍隊向けラジオ放送をこの国の人が聞いて魅了された、戦地の収容所でひがな聞いていた外国の音楽に魅了された、あたりが理由として思いつく。まあ理由を問うても正答はないだろうな。むしろどんな音楽がはいってきたかが重要で、1945-1965年ころにはたくさんの種類の音楽が聞かれていた。アメリカのジャズにカントリーに、フランスのシャンソンに、イタリアのカンツォーネに、アルゼンチンタンゴに、キューバサルサとかカリプソとかサンバとか(ここらへんは「ラテンミュージック」にひとくくりになっていたのかな)。多様な外国音楽が英米のロックひとつに絞られるのは、ビートルズの後。英米圏以外の歌手に人気が出たのはミシェル・ポルナレフが最後になるか(散発的にはフリオ・イグレシアスとかいるけどね)。

 上記の音楽から少し遅れて入ってきたのが、ブラジル音楽。たぶんきっかけは、1959年のマルセル・カミュ監督の映画「黒いオルフェ」。ちなみに映画にはフランス語版とポルトガル語版の2通りがあり、両方見たけどオリジナルのポルトガル語版のほうがよい。この映画で流れたサンバとボサ・ノヴァにこの国のひとたちは魅了された。音楽を担当したアントニオ・カルロス・ジョビンルイス・ボンファも人気者になった。
 個人的な話をすると、「黒いオルフェ」は20代半ばに見た。音楽よりもオルフェウス神話とブードゥーの組み合わせに興味をひかれて、音楽は印象に残らなかった。あとになって、アストル・ピアソラを聞くようになり、中南米文学を読むようになってから遅れてこれらの音楽に魅かれた。それぞれ50枚たらずのCDを持っているくらいの素人そのものではあるのだが。
 この国の対蹠点にあたるブラジルの音楽を研究するのはなかなか難しい。なので、2000年ころまではブラジル音楽の通史はこの1977年初出のこの本くらいしかなった。奇妙なのは、著者はドイツ人であること。でも、ドイツも敗戦後に外国の音楽が一気に流入して、ファンが生まれた国だった。タンゴやボサ・ノヴァは熱心なファンはブラジルを除くとドイツと日本にしかいないといわれるくらい。それに戦前からドイツは民族音楽研究が盛んであったという事情もあるだろう。この本も、ドイツの放送局が作ったブラジル音楽のドキュメンタリーをもとにしているという。(ただ、ドイツの人たちがタンゴやボサ・ノヴァを演奏すると、拍子やリズムが堅苦しく、丁寧にメロディをなぞる上品な演奏になる。どうしてもクラシック音楽みたいになるのがご愛嬌。そのうえ、戦後生まれのドイツの若者がこういう音楽に流れていくので、クラシック音楽演奏家が育たたないという嘆きも半世紀前からずっと言われている)。
 啓蒙を目的にしたTV番組からつくられたので、スペイン人の「アメリカ大陸発見」から始まるブラジル音楽を記述する。ワールド・ミュージックにアクセスして、聞く手段が限られていたためか、邦訳刊行当時(1979年)には参考用のLPが販売されたという。おおざっぱにブラジル音楽には、ネイティブ・インディアンの音楽、黒人の音楽、土着の混血人の音楽の3つの流れがある。そこに西洋のクラシック音楽と軽音楽も入ってきて、相互に影響しあいながらいろいろな変化が生まれたらしい。前半150ページは19世紀以前のことが記述されるとなると、ときにページを繰る手が止まり、開く口に手を当てる仕儀になる。
 後半ではボサ・ノヴァの章(1958-64年)が抜群に面白い。関係者は執筆当時(1977年)存命中だったから、エピソードを直接聞けたのだろうね。それにこの音楽運動は、一国内にとどまらず、世界的な広がりを持っていて、他の国の関係者も出てくるのだし。素人同然の自分が推薦するのはおこがましいので、やめておく。このクールで、軽くて、スノッブで、斜に構えながら真摯な音楽はとてもよい。悲しいことながら、ブラジルのボサ・ノヴァやジャズがはやって、ブラジルの音楽家アメリカでレコーディングをしたとき、アメリカのミュージシャンから差別的なふるまいをうけたという。このインテリの音楽はそういう差別や社会変革の意思を示すものではないが(1960年代後半のものにはそういうのがあるらしい)、背後にはさまざまな感情が流れているのだよな。そこを含めて自分はこの音楽が大好き。

(推薦しないといいながらその口も乾かないうちに。ジョビン「波」、エリス&ジョビン「Elis & Tom(ばらに降る雨)」は必聴。「ゲッツ/ジルベルト」は背後の事情を知って聞くとよい。おれはゲッツの演奏はすっ飛ばして、ジルベルト&ジョビンの演奏しか聞かない。ルイス・ボンファバーデン・パウエルもいいけど、推薦できるほど知らない。1960年代前半の録音を聞くのがよいと思う。)
 あいにく1960年代から後は経済が停滞する時間が多く、軍事政権のために表現の自由が抑圧されていた。ボサ・ノヴァのあとには社会批判の音楽やブラジル・ロックなどもあったというけど、世界的な名声は獲得できない。その沈滞の雰囲気は残り50ページに色濃い。持続的な経済発展は2010年ころからだが、あいにくレトロ趣味の自分はどういう音楽が流行っているのかは知らない。

波

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ゲッツ/ジルベルト

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 ボサノバのCDを購入するときに参考にしたのが、中村とうよう「ヴィヴァ!ボサノーヴァ」ミュージックマガジンアストル・ピアソラのCDを購入するときに参考にしたのが、斎藤充正/西村秀人「ピアソラ タンゴの名盤を聴く」立風書房