牧師(明示されていないがすなわちプロテスタント)の「わたし」はある娘に呼び出されて村から離れた湖のほとりにある家に連れていかれた。老婆が死んでいて葬儀の段取りを決めたのち、そこにいた15歳くらい娘を引き取ることにする。彼女は盲目であり、教育をうけたことがなかったので、口がきけなかった。友人の医師の勧めで、娘ジェルトリュードに識字教育を始める。彼女は目覚ましい発達を遂げて、数か月もたたずに意志や意見を表明できるようになった。(ヘレン・ケラーの最初の自叙伝がでたのは1903年なので、よく知られていたのだろう)。

しかしそれは「わたし」の家庭に不和を招く。妻アメリ―は夫の「わたし」に面倒を一切押し付けてきた、今回も事前の相談もなしに勝手にもう一人の子供を連れてきたからだ。面倒はかけないよと男の「わたし」がいっても妻は押し黙り、「わたし」を無視する。5人の子供たちもジェルトリュードとはうまくいかない。ただひとりもうすぐ成年で神学部に進学しようと考えているジャックだけはジェルトリュードと何度もあっている。「わたし」の知らないところで親密になっているよう。「わたし」はジャックにジェルトリュードに会わないようにしろと命じる。ジャックは従う。
友人の医師はジェルトリュードの目が手術で治る可能性があるといい、手配をする。煮え切らない「わたし」。手術は成功し、祝賀会を用意するなか、帰宅したジェルトリュードは家の近くの小川で花を摘もうとして落ちてしまった。瀕死のジェルトリュードは「わたし」に自殺しようとした、目が見えてから最初に見たのは「わたしたちの罪」。それに愛しているのは「わたし」ではなく、ジャックなのだといい残し、亡くなる。
タイトルは「わたし」とジェルトリュードが演奏会で聞いたベートーヴェンの交響曲から(普仏戦争で負けてからフランスでもベートーヴェンの曲が盛んに演奏されるようになった)。盲目の娘からすると、世界はこの音楽のように美しく調和しているはずであった。しかし、実際に目に見えたのは欲得や我意で角つきあい、互いに支配しようという闘争であった。
戦前であれば「わたし」の純情と福祉は称賛されもするのであろうが、20歳近い息子をもつ中年男が15歳の娘を教育名目で従属させようとするのは受け入れられない判断にほかならない。当人がいうには娘を引き取ったのは善意であるが、そのあとに不幸な娘を救うストーリーを作っていたという。不幸な娘を教育して権威者としてふるまう。「わたし」にとって娘ジェルトリュードは無垢、清純、従順であり、「わたし」だけを愛するドールなのだ。教育で長時間いっしょにいるうちに相思相愛であるという妄想が生まれているのだね。こういうのを家父長制という。
牧師の「わたし」は聖職であるから価値中立で中庸な立場に立っていると思っているようだが、実際は家父長制の権力を行使している。それに気づいているのは妻アメリーに、息子ジャック。20世紀初頭の家父長制は強いので、彼らは表立って抵抗はできないが、言動はぜんぶ夫と父の批判であるのだ。とりわけプロテスタントの息子がカソリックに改宗するのは、相当につよい反抗の証。そういう徴を突き付けられても、鈍感な「わたし」はジェルトリュードの追憶にふけるだけ。現実が見えず、妄想に逃避したがる男の哀れな姿。
ジイドの小説はどうしても主人公の男の身勝手とミソジニーが目に付いて楽しめない。ふた昔前なら、「わたし」の心理分析に驚嘆したのだろう。でも100年で社会が変わった(初出は1919年)。
アンドレ・ジイド「田園交響楽」(岩波文庫) → https://amzn.to/4gZvpyB https://amzn.to/4h2MRlN
アンドレ・ジイド「背徳者」 → https://amzn.to/4h2Dlix https://amzn.to/3KzCjyH