odd_hatchの読書ノート

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野口米次郎「野口米次郎定本詩集 第3巻」(友文社)「印度詩集」-2 帝国臣民は「友好国」を訪問して「大東亜共栄圏」の肯定する。

2023/02/18 野口米次郎「野口米次郎定本詩集 第3巻」(友文社)「印度詩集」-1 1947年の続き

 

 ではテキストを読んでいこう。参考にできるのは本書のみ。他の資料は一切見ないで、書かれていることだけで感想を書いていく(専門家ではないので、そこまでの手間はかけられない)。

 本書は三部構成になっている。3分の2を占める自作の詩はインド旅行の体験を基にしたもの。

 のこりは交友のあったタゴールの詩と劇詩。詩はタゴールから個人的に送られたものらしい(戦前の英語版タゴール全集に未収録と著者は記している)。

 本書は昭和22年に出版されているが、いつ書かれたのかは全く不明。自分が予想するに、日本はすでに軍国主義体制になっていてアジア諸国には行けるが、西洋人との接触はできない/やりずらい状況になっていた。日本の「国威」を背景に、アジア諸国を下に見る視線は日本人の誰もが共有していた。そこから1930年代に書かれたものと推測する(英米に宣戦布告した1941年以降は単独のインド旅行は無理だっただろう)。

 まずは自作。この人は印度の歴史や神話をよく知っていて、観光で訪れる都市や遺跡をみると、歴史的感興が湧いてくる。日本にはないが歴史的因縁を持っている事物や場所を訪れ珍しいものを見たという非日常を味わう。実物やそこにいる人に感銘を受けるのではなく、場所から想起するテキスト情報で連想して詩想を作るのだ。そこで想起するのはとても日本的な観。自然や仏教遺跡などから立ち上る官能に酔いしれる。宇宙的に孤独ではあるが、霊的な上昇が可能な個の存在を夢想する。西洋の自然哲学(ヘッケルやベルグソンみたいな「生の哲学」やロマン主義)と東洋哲学(とは一体何か)のアマルガム。そのやり方は夏目漱石の「倫敦塔」「カーライル博物館」などといっしょ。なるほど本をよく読む秀才が作った詩だ。

 彼は「表象」という語になにか特別な意味を持たせたいようだが、詩集全体を通じて明らかではない。奇妙なのは、詩にも註(ここで自分の観光を記録した文章をつけている)にも他人がいないこと。詩の中にでてくる人物は書き手ひとり。時にでてくる「愛人(今なら恋人とするような存在)」も肉体も意見も持っていない抽象的な存在だ。
 彼は神話の人々とは会話をするが、路上で見かける人は一顧だにしない。

「寂しい田舎の停車場で薄暗いプラットフォームに、幾十人となく苦力がごろごろと寝ているのを見た時の感じ、決して喜ばしいものでなかった。あるものは物凄くも見える黒檀磨きの顔を汚れた毛布からさらけ出し、あるものは煮しめたような黒い1枚の木綿にくるまって打遣られた荷物の如くに見えた」

このような視点は朝鮮や中国に同時期に行った日本人がたいてい共有していたものだから、著者特有の偏見であるとはいえない(夏目漱石「満韓ところどころ」新見南吉「張紅倫」横道利一「上海」夢野久作「氷の涯」「爆弾太平記」金子光晴「マレー蘭印紀行」中島敦「虎狩」などの戦前に書かれた植民地視察文学の系譜に入る一冊)。 そりゃ、インドの貧困・格差・階級の問題にコミットするのはとても大変で、圧倒されていうことはなくなるかもしれないが(小田実「何でも見てやろう」(河出書房新社))、そこにいる人に公正なり同情なりの感想を持ってもよいのではないか。当時の日本は外国侵略や植民地化を「八紘一宇」「五族協和」などのスローガンで正当化したのだが、日本人以外の異人には人権を認めないどころか人間としてみとめない。それが搾取や虐殺の理由になったのだ。外への帝国主義は政治家や軍人だけでなく、国民全体に行き渡っていたのだね。
 こういう感想も。

「かく地べたにごろごろ寝ている印度人を眺めて、彼等に国家の独立などを説いた所で無役だと思わざるを得なかった」

 あなたが見たガンジーはけっしてそのようには考えなかったのだが。
2012/08/30 マハトマ・ガーンディー「真の独立への道」(岩波文庫)
2021/11/01 杉本良男「ガンディー」(平凡社新書) 2018年

 印度という異教を訪れて起こる感興は日本的な良さに帰着する。過去の印度教や王国の豊かさに驚嘆しながら、貧困や格差の悲惨に傍観の立場でいて、過ぎ去り消えるのを待つだけ。そのような侵略に遭わない日本的な寛容や愛を賛美する。東洋的な観念で世界は救済されるようなイメージを持っていそうだが、この人のアイデアは「大東亜共栄圏」の肯定に他ならない(実際、戦後は戦争協力者として干されたということだ)。西洋諸国と同等になろうとしながら植民地を収奪する日本の帝国主義者なのだね。自分はこの詩作から「近代の超克」座談会に出席した知識人たちを思い出したよ。
 このような不満は後半のタゴール詩集でようやくなくなる。同じ語彙を使った語り手が書いているので、詩想の違いがよくわかる。タゴールの詩にある肉感性、官能性の優れていること。人々への視線の優しく希望や慈愛に満ちていること。詩の出来が一段と立派になっているのがわかる。
 後半の劇詩はインドの古典(マハーバーラタなど)から題材をとったもの。王などの権力者が宗教や共同体の規範や道徳から外れ、それを肉親に叱責される。葛藤する英雄、苦悩する老いた親。共同体の要請する政治の論理(時に宗教的対立も加わる)と、個人の自由との間で深刻な亀裂が生じる。もちろん近世以前のものであるので、自由や人権が尊重されるわけではなく、問題のとりあえずの解決も受け入れがたいことがある。とはいえ、彼らの苦悩は現代に通じているのであり、一方悪の側にいるものにはマキャベリ当人ないしその弟子とも思える者が筋道立って悪を遂行する論理を語ることに驚異を感じることがある。これもタゴールの力によるもの。
 言葉の選択は的確で、論理的な構成を持ち、いささかロマン主義的な感傷がまざる。同時代の詩と比べると遜色ないようにも見えるが、帝国主義的なものの見方では戦後に読者を獲得するのは難しかろう。

 

 伯父は昭和22年にこの本を14歳で購入した。なるほど独我論中二病とも)に目覚める年齢になると、このような観念はすんなりとはいってくるものだったに違いない。加えてほとんど娯楽のない時代に、この一冊は彼にエキゾティズムを伝えるものだった。テキストからインドの風景を想像することは、後の少年がアニメや漫画を見て異国を想像するのと同じことだったのだろう。すでに亡くなった伯父が少年時代にどのような夢想を楽しんでいたのか。自分が老年になると、こちらのほうが気になった。

 

野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 01
野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 02
野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 03
野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 04
野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 05
野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 06 タゴール叙情詩 劇詩
野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 07 タゴール「アマとヴァナヤカ(劇詩)」
野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 08 タゴール「ソマカとリトヴィク(劇詩)」
野口米次郎定本詩集第3巻 印度詩集 09 タゴール「母の祈願(劇詩)」

 

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