2024/09/26 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 2」(光文社古典新訳文庫)第2部第6編「ロシアの修道僧」 正義を実行しようとするゾシマは町を追い出される。 1880年の続き
修道僧ラキーチンは、カラマーゾフ家には女好き、神がかり、金儲けの特長があると指摘した。女好きはフョードルが、神がかりはイワンが、金儲けはドミートリーが抱えている。アリョーシャは彼らに対するコントラ(否定)を担っていて、スメルジャコフは彼らの肯定を担っている。アリョーシャは「女好き、神がかり、金儲け」から最も縁遠くて、ロシアを開拓する「新しい人」の条件を持っているようにみえるが、しかしカラマーゾフの兄弟なのであって、どれも彼の問題として現れ、容易に克服できそうにはなさそうだ。



第3部
第7編「アリョーシャ」 ・・・ 3日目。修道院ではゾシマの葬儀の準備が始まった。院の内外では興奮と待望の気分が生まれ、たくさんの人が集まっていた。しかし午後になると、棺から腐臭が漂い、人々に動揺が起こる。ゾシマを敵対視していたフィラポント神父が闖入し、ゾシマを罵った。
(聖者の遺体は変質しないという伝説があり、人々は奇跡を期待したのだが、ゾシマの進退はそれを裏切った。奇跡が起きなかったことに落胆し、狂信者は大衆の動揺を扇動に利用する。「大審問官」で人々、大衆は教義よりも奇跡・神秘・権威にひれ伏すと言っていたことを思い出そう。)
修道院をでたアリョーシャをラキーチンが引き止め、グルーシェニカの所に行こうと誘う。ラキーチンはアリョーシャを堕落させようという魂胆があった。というのはのちに明らかになるが、ラキーチンはグルーシェニカに金で雇われ、アリョーシャを招くように命令されていたのだった。
そのグルーシェニカの一代記。17歳でどこかの将校に騙され捨てられ、18歳でこの地の商人に囲われた。ずいぶん泣いたが、その後金を儲ける仕組みを作り、男を手玉に取り、商人でさえ頭を上げられないような女になった。金と美貌で土地の男はみな言い寄ったが、すべて振っていたので悪い評判がたっていたのだ。そのグルーシェニカは「アリョーシャのことが好き」といい、膝の上に座る(当時としてはとてもエロティックな描写で、はしたない行為)。グルーシェニカは「一本の葱」の話(芥川龍之介「蜘蛛の糸」が葱に変わったと思いなせえ)をする。他人を蹴落とそうとして天国行きを拒まれた意地の悪い女は自分だといい、アリョーシャに好意を持つようになってからの改心を語る。そしてかつては復讐したいと思った男を許せるようになったという。それを聞いてアリョーシャはグルーシェニカを称賛(「愛し方では自分より立派」)。グルーシェニカも感激して「アリョーシャは私の心の表と裏をひっくり返してしまった、あなたのような人を待っていた」と返す。そこに将校がやってきて、グルーシェニカは彼と一緒に出発することを告げた。アリョーシャとラキーチンは追い出される。
(復讐を考えるほどの「敵(かたき)」を許すのはとても難しい。それを実行できる人を称賛する。とても美しい話のようにみえる。でも俺はひっかかる。復讐を考えるほどのひどい仕打ちを受けた人の心の傷はそう簡単に癒されない。グルーシェニカの男たちのハラスメントにあって、ひどい苦痛を受けてきたのだった。彼女が男たちを許せるのは、男らを凌駕する資産を持てたから。そして高飛車で冷酷な行動性向を男たちが受け入れているから。社会的な不均衡を自分の努力で克服して、男と同等の立場になった女性が男を許している。その構図があるからアリョーシャがグルーシェニカを称賛しているのではないか。そういう疑問。もうひとつは社会的なハラスメントに対しては被害者に頑張らせ、その行為を称賛するのでは、ハラスメントは無くならないということ。被害者がどう感じているかは関係なく、加害者を周りから叱ったり説教したりしてハラスメントができないようにするほうがよい。まあ19世紀の小説に21世紀の規範を押し付けても仕方がないが、アリョーシャの言動は完全に正しいわけではないことを指摘する。)
(イワンも第5編「プロとコントラ」第4章「謀反」でこういっている。引用は中山省三郎訳。
「僕には復讐なんか用はない、暴虐者のための地獄など、何になるんだ。すでに罪なき者が苦しめられてしまった暁に、地獄なんかが何の助けになるんだ! 第一、地獄が存在していてどんな調和があるんだ。僕は許したいのだ、抱擁したいのだ、人間がこれ以上苦しむことを欲しないのだ。もしも子供の苦悶が真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすために必要だというなら(略)暴君を許す権利はないのだ! もしも、たって望むなら、自分だけの分を許すがいい、自分の、母親としての無量の苦痛だけを許してやるがいい。しかるに八つ裂きにされたわが子の苦痛は、けっして許す権利を持っていないのだ。たとい、子供自身が許すといっても、その暴君を許すわけにはいかないのだ!」
これに文句をつけると、イワンの問いの仕方では許す権利をもっているのは「彼」イエスだけになり、人には他人の罪を許したり処罰したりすることができなくなる。それでは社会の機能が停止するので、罪の範囲と処罰の仕方を決め、できるだけ多くの人の意見を反映して「罪と罰」を決めるようにしている。一人が決定するのではなく、他者の複数性を尊重して慎重に判断し、誤りを訂正できる仕組みにしているのだ。ドスト氏や岩の問いはいささか荒っぽいので社会を構成するのに至らない。)
アリョーシャは修道院に戻ってゾシマの棺の前に膝まづく。そばではパイーシー神父がガリラヤのカナ(ヨハネ2 1-11)を朗読している。イエスが婚礼に招かれたとき、葡萄酒が足りなくなったので、イエスが水を葡萄酒に帰る奇跡を起こしたという話。夢うつつのアリョーシャは「彼(「大審問官」に現れる)」が近づいてきて、静かに笑っているのをみる。ゾシマも現れ「一本の葱をあげた」と伝える。そのときアリョーシャの心は満たされ、喜びの涙が魂からほとばしり、大地を抱きしめた。しばらくして起きた時、アリョーシャは「生涯変わらない確固とした戦士」として生まれ変わった。
(「一本の葱」はもちろんグルーシェニカが語ったロシアの昔話に由来している。神の差し出した救済の手の暗喩であり、それをしっかり握るのはイエスの福音を受け入れることの証。なるほどこの証を自分のうちに持つと確信することは、「自分は生きていける」「生きる資格がある」というラスコーリニコフの述懐につながる。これは外側から与えられるものではないので、「一本の葱」を持てず「神様を死なせてしまった」と嘆く少女(「悪霊」でスタヴローギンに凌辱された)やスヴィドリガイロフ(「罪と罰」でドウーニャに銃撃される)は生きていけなくなってしまう。そこからゾシマがいうように自殺者はあわれ(で、自ら神の救いの手を拒んだので神の救いの対象外)とみなされる。大地を抱きしめるのは狂人のやることとみなされるのであるが(「罪と罰」のラスコーリニコフ)、アリョーシャは進んで行い、歓喜の涙を流す。ここで彼の「神がかり」は「彼」の承認を受ける正当なものとなる。ここでようやく前の章の「ゾシマ伝」が完結する。アリョーシャが書いたゾシマの生涯と説教は「大審問官」を圧倒するような力をもっていなかったが、「彼」を幻視することでアリョーシャと「彼」の間の無限の隔たりが一気になくなったのだった。
(なので、「大審問官」を単体で検討しても不十分。あの章にあるカソリック批判は、ゾシマの一代記にある改心をへて、アリョーシャの大地投身による覚醒にいたって完結する。この一連の流れがドストエフスキーが考えるロシアの救済。)
そのような神秘体験がロシア正教では重要なのだ。西洋の科学や哲学が言葉と論理で納得することとは大違い。科学や哲学は2+2=4の不変性と普遍性を信頼するが、ドスト氏は2+2=4が押し付けになるので大嫌い。そこには論理やテキストに関係ないところで一気につながる感覚がないため。ドスト氏が繰り返し考えてきた「新しい人間」というのは、このときのアリョーシャの神秘体験を持った人のことをいうのではないかしら。そうすると、ラスコーリニコフやイワンが言ったように神人一致の「新しい人」はなにをやっても許されるのだろう。とすると、「カラマーゾフの兄弟」第2部でアリョーシャが皇帝暗殺をたくらむようになったとき(コーリャの独断専行に抗しきれなくなったとき)、神秘体験によって皇帝暗殺を正当化するのかしら。その時再び、ラスコーリニコフの「一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論(米川正夫)」の当否を問うことになる。
「人間はすべて凡人と非凡人と二つの範疇に分たれ、前者は世界普通の道徳法律に服従する義務を有し、後者は既成道徳を踏み越えて、新しき法律を創造する力を与えられている。したがって、彼らはその行動によって歴史に新紀元を劃し、人類に無限の貢献をなすものであるから、凡人に禁じられている行為をも敢行する権利をもっているのである」米川正夫による「罪と罰」解説)
(夢うつつで見る「彼」の姿は「キリストのヨルカに召されし少年」を思い出す。自然との一体化した感覚をえて法悦エクスタシーを感じるというので、トルストイ「アンナ・カレーニナ」を思い出した。志賀直哉も「暗夜行路」で、水村美苗「続・明暗」でそういう神秘体験を書いていた。)
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2024/09/23 フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟 3」(光文社古典新訳文庫)第3部第8編「ミーチャ」 何もかも失ったと思い詰めたドミートリーはモークロエの大宴会で愛を見出す 1880年に続く