黒岩涙香の翻案が復刻された。「法廷の美人」は涙香の新聞連載小説の第一作で1888年に出た。もとはヒュー・コンウェイという英国の作家が書いた「ダーク・デイズ」1884年。わずか4年で邦訳がでるとは驚き。涙香の本を探す能力はとても素早い。

ヒュー・コンウェイ(1847~1885)は以下を参照。
「ダーク・デイズ」は高木直二による邦訳もでている。
https://www.amazon.co.jp/dp/4846020916
「コールド・バック」という長編第一作も同じ訳者ででている。
https://www.amazon.co.jp/dp/4846023818/
「余(卓三くん)」の本業は医師。あるとき目を見張る美女が診療所にやってきて母を見てくれという。あいにく母は数か月でなくなってしまったが、お璃巴と名乗る美女との関係は続き、ついに卓三くんはプロポーズしたのだが、けんもほろろに断られてしまった。というのはお璃巴は毛利平徳という貴族紳士と結婚していたからであった。傷心の卓三くん、あきらめきれずに悶々としているところ、半年後にお璃巴と再会。めそめそとするお璃巴が語るに、平徳なる紳士、実は結婚詐欺師でDV野郎。耐えきれないので離縁したのだという。卓三くんはお璃巴をつれて別宅に匿うことにしたが、平徳とけりをつけるといって出ていき行方がしれない。平徳の本妻となのるお悪なる女もお璃巴を憎く思っている。吹雪のなか卓三くんがお璃巴を探すと、ピストルをもって半狂乱のお璃巴を見つける。彼女が言うには駅で出会った平徳を思わず撃ち殺してしまった。探すとたしかに平徳の死体。すわ一大事と、卓三くん、お璃巴を連れて別宅に匿う。その夜の雪は深く、除雪作業中に平徳の死体は雪に隠されてしまった。そこで卓三くん、駆けつけた自分の母とお璃巴を連れて外国に脱出しようと計画する。
小説は卓三くんの一人称一視点で語られる。社会経験に乏しい青年が犯罪事件に巻き込まれ、相談できる信頼する他人がいないので、一人で問題を抱えて悶々とする。不安が恐怖を生み、不信が焦燥になって、バカげた行動になっていく。アイリッシュを典型にするようなサスペンス小説が19世紀にすでにあった。犯罪はあっても探偵はいないし、彼らを追跡する悪人もいない。恐怖と焦燥はすべて青年の心の中にしかない。
解説によると、コンウェイの小説はそういう普通小説、家庭小説で、主人公の心理を詳細に書くものだったという(さすがに直近の翻訳を読んで確認する気にはならないなあ)。一方、涙香の翻案はそのあたりをほぼカット。ストーリーを語ることに精を出して、卓三くんの細やかな心理は描かれない。なので、卓三くんが身勝手で衝動的で世間知らずであることだけが浮かび上がってしまう。1888年という時代では、日本の小説はまだ内面も心理も発見していないし、ふさわしい文体もなかった。そうすると江戸時代の草紙のような単純さと最後の意外性だけに特化する書き方になったのだろう。
スペイン・セヴィリアに投宿して安心していたところ、英国の観光客が平徳殺害事件の話をしているを聞く。しかも別の犯人が挙げられて、公判が始まっているという。再び悶々とする卓三くんをお璃巴は問い詰め、ついに事件の詳細を知らせると、お璃巴は無実の人を有罪にしてはいけない、私は自首するといいだす。困った卓三くんに、話を聞いていた母も、ええい情けない息子、正義にもとってなんとすると叱責するに、ついに二人を連れて帰国することを決意。判決が言い渡される法廷に二人は間に合うのか……。
アイリッシュならさらに逃げるだろうなあとか、日本の伝奇小説なら白を切るだろうなあとか、つらつらおもい、ここでは英国の読者にはそのような悪事を正当化するのではなく、正義や公正であろうとする意志を表明しなければならないのだなあ、と得心する。法治主義や議会制民主主義を成り立たせるには、市民がこういう道徳観をもつことが必須。そういう点では、犯罪を描いても、正義と法はしっかりと確保され、犯罪者は処罰されなければならない。個人の事情や思惑があっても正義と法にもとるなら、それは正されなければならない。
黒岩涙香の翻案では出来の良くない一編。丸亭素人「鬼車」もそうだが、ミステリの完成度をたかめるために謎解きや意外性に関係しないところを削るのは小説を貧しくするのだね。それを思うと、「死美人」「幽霊塔」の傑作はどこからでてきたのか。これらも原作の10%くらい(当社調べ)は削っているのに。
黒岩涙香「法庭の美人 ダーク・デイズ」(扶桑社) → https://amzn.to/4rmWQpH