ストーカーの「ドラキュラ」かあ。もう二回読んで解釈したし、参考書を数冊読んだぞ。もう新しい見方なんぞないだろ。ま、一つお手並み拝見と行くか。

という思い込みで読んだら、予想をよいほうに裏切られました。男視点で読むと読み落しがたくさんあることを思い知らされた。おみそれしました。
男視点でみると、「ドラキュラ」の主人公は誰?になる。ジョナサンは頼りないし(代わりに彼の成長物語がある)、スワードは参謀然としてリーダーシップを持たないし、ヴァン・ヘルシングは老人でアクションしない。この中の誰に感情移入すればよいのか。そのとき、著者はみそっかすで紅一点のミーナに注目する。
彼女は家庭的でおしとやかな女性にみえる。でも男に隠れて速記を習ったり最新機器を使ったり鉄道の時刻表を暗記していたりする。そういう能力は見せない。ミーナは男たちの視線にさらされて本音を出せないことに不満をもっている。開放されるのは、ルーシーとものをたくさん食べるときと日記を記すとき。ドラキュラの暗躍やルーシーの異変に気付いても、男たちはミーナをみそっかすやお姫様扱い。一方、ルーシーは家庭的でない性的魅力を持つ女性。彼女は三人の男にプロポーズされるが、ドラキュラの餌食になりこの三人によって残虐に殺される。
ここから見えてくることは、19世紀末のイギリスには「新しい女性」が誕生し、自己実現を図り、食や性の欲望を持ち、自己を主張するようになる。ミーナやルーシーは「新しい女性」の性格をもつ。しかし性的魅力を振りまくようになると退化したとみなされる。女吸血鬼が官能的であるのはそのイメージ。
ミーナはさまざまな本心を持つが日記にしか現れない。男によって沈黙させられる(本心をだれも聞かないし無視されるというのはレンフィールドも同じ。彼は精神疾患と正気の境界にある)。人間と人形の間に置かれる。彼女の変身は、ロンドンを逃げ出したドラキュラを追跡するとき、彼女の推理と知識が男たちに目を見張った時。そこからミーナは男たちと対等にしゃべり自己主張するようになり、男たちはミーナの発言を受け入れチームの一員にする(著者によるとオープンダイアローグの実例とのこと)。小説のラストにある追跡シーンは長いが、ミーナの活躍を描くために入れたのだろうと著者は推測する。ドラキュラは前近代の怪物だが一人で行動するのは近代人。追いかけるのは近代性を持っているが、チームで狩りをする前近代性にある。
この見方は見事。なるほど「ドラキュラ」の物語で、自己実現を果たしたのはミーナだけだったのか。彼女をみることによって、19世紀末のホモソーシャル社会に対する批判を見出せるのだ。
著者に関しても新知見が指摘される。ブラム・ストーカーはアングロアイリッシュ。アイルランドではマイノリティ扱い(ジョイス「ユリシーズ」にもそういうキャラがいたな)。加えてカミングアウトしないゲイ。どこにいても肩身の狭い思いをしている。自分の複層したマイノリティ性がドラキュラのキャラに反映している。上のミーナとルーシー、レンフィールドがそう。ヴァン・ヘルシングはオランダ人(かつては医学の中心で、プロテスタントだから怪奇には親和性がある)。ドラキュラがマイノリティであるのは丹治愛「ドラキュラ・シンドローム」にある通り。著者はさらにロンドンで孤独な戦いをするドラキュラにアイリッシュのマイノリティ性を重ねているという。
男視点でみると、男のチームが女のお姫様(ないし紅一点)を従えて、外敵の侵略から市民を守るストーリーになる。そうではない。女視点で見ると、男が設定した男-女、都会-田舎、科学-迷信、近代-前近代、意識-無意識、マジョリティ-マイノリティなどの二項対立はおかしい。その間にはどちらにもつかない/つくことができないあわいがある。あわいにある人びと、マイノリティの声を聞き、アクションに参加させることが重要なのだ。社会を豊かにするのだ。その練習をするよいサンプルがストーカーの「ドラキュラ」。
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