odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

プーシキン「ボリス・ゴドゥノフ」(岩波文庫)

ゴドゥノフ朝滅亡をはかるモスクワ貴族階級と偽の皇子を推戴する士族階級とが対立する17世紀初めのロシアの「動乱時代」を鮮やかに描いた史劇。プーシキンは、作中人物を通して、ゴドゥノフ朝滅亡の陰に人民の輿論を見、その輿論の根底に封建制度の崩壊を見いだす。ロシア国民劇に新しい面を切り拓いた野心作。1870年初演。(表紙のサマリ)

(帯は1988年か89年のものだと思う)
 クラシック音楽になじみ深い人にとっては、ムソルグスキーの歌劇でよく知られている。またドストエフスキーの心酔するロシアの(最初の)天才詩人で劇作家。かつ決闘で夭逝したという天才神話の持ち主。
 内容に入る前に、まず「ボリス・ゴドゥノフ」について知らないといけない。この国の人は「織田信長」「豊臣秀吉」などの人物名と簡単な生涯は知っていて、とくに背景を説明しなくとも通じてしまう。「ボリス・ゴドゥノフ」はロシアの人びとにとってはそういう人物であって、その名を出すだけで「ああそういう人ね」ということになる。なので、wikiあたりを使って、概要だけ書いておくと、1551年にモンゴルの下級貴族の息子として生まれる。長じて軍隊に入り、時の皇帝の臣下の娘と結婚。のちに摂政の一員となる。皇帝の後継者が不審死を遂げたのち、各所でも戦で戦功を上げたボリスを皇帝に、という声が高まり、ついにはツァーリに上り詰める。その際に前皇帝の息子を謀殺したのではないかという疑惑が生まれた。現在に至るも解決していないのであるが、そういう負のスティグマを背負わされてしまったのだった。彼は西洋化を図る改革を推進しようとする。しかし、個人の力量はあっても、周囲は踊らず、せっかく西洋に留学させた貴族の息子たちは帰国せず、彼の改革に参加しなかった。それに飢饉その他の自然災害があって、多くの人命が失われた。ほぼ孤立したような状況にあったとき、ポーランド人の支援を受けて前皇帝の死んだとみなされる息子が謀反を起こし、混乱のさなかに死亡する。
 プーシキンはこういう1600年前後の混乱した時代を描く。それが国民的史劇であるとみなされるのは、ボリス・ゴドウノフの数代前の皇帝がイワン雷帝であるからだ。それまでのロシアは分裂した小国が乱立した状態で、東欧の諸王国から略奪・搾取されるような地方であったのだ。そこにイワン雷帝が現れ、強力なリーダーシップでロシアを統一し、近代化を進める。ようやくナショナリズムと国家が統合されたわけだ。それから数世代の後に、ロシア生まれでないものがツァーリとなるのであるから、これは容易に納得できる状態ではなかろう。まあ、プーシキンの19世紀前半というのも、アレクサンドル皇帝の近代化、工業化が行われていたのだが、国内資本のない悲しさ、生産資本は外国の投資(たしかフランスとドイツだったか)によるもので国民は収奪されているのであった。ここにおいて、西洋かぶれのツァーリ不要、われらの祖国再建、貧しい人々の救済を訴えるインテリが誕生し、もうじきデカプリストの乱が始まるという時代であった(さらに西に眼を向けると、フランス革命とナポレオンの世界侵攻に影響されて、ナショナリズム国民国家設立の運動がおきていて、若者たちのうち血気走るものが「革命」を要求していたのでもあった)。
 これくらいの背景をもって、韻文史劇をよむとしよう。とはいえ自分は戯曲の読み取りは苦手であって、感想をまとめにくい。いくつかを書いておくと、外川継男「ロシアとソ連邦」(講談社学術文庫)によるとボリス・ゴドゥノフは悪巧みを働く悪役と描かれてきたという。そうかもしれないが、自分には国家的な危機をひとりで迎え撃つ決意を持つ孤高の存在。その孤独感は際立っていて、彼が憤死するとき、世界の罪と穢れを一身に背負ってあの世に持っていく「英雄」に他ならないと見た。彼が死ぬことによって、混乱した世界は浄化され再生することできるのだ。ボリスの敵役となる偽ドミトリーは計算高く野心をもつ家臣(プーシキンという名前だよ)の前では指揮官然としているが、愛人の前では、元は貧乏な神学生、このままではうだつのあがらないままのたれ死ぬから一か八かのかけに打って出た、でもそれは自分の身丈にあっていないと泣き言をいう近代人。この二人が印象的。最後に偽ドミトリーが即位するのだが、クレムリン前(当時あったのかな? まあいいや)に集まった民衆は沈黙で答える。すなわち偽ドミトリーを認めないという消極的意思表示。プーシキンのみた現在の民衆はそういうものであるという認識かな。それでも当時としては過激思想であり、早速名誉ある上演禁止の命を受け、初演は詩人の死後30年以上たってから。

そのあとすぐにムソルグスキーがオペラ化する。まだ聞いたことがなくて、クリュイタンス盤、カラヤン盤、アバド盤、ゲルギエフ盤あたりが評判高いのだが、どれにしようかな。できればマタチッチ指揮NHK響の1965年スラブ歌劇団公演がいい。20年くらい前に全曲がFMで放送された。映像付でだしてくれないものか。