odd_hatchの読書ノート

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荒巻義雄「エッシャー宇宙の殺人」(中公文庫)

 カストロバラバは不思議な港町。町のあちこちにエッシャーの描いた版画、スケッチその他とまったく同じ建物や設備がある。その空間は、我々読者がこの地球にいるような三次元と重力の影響と無関係である。そのために、三次元ではありえない捻じ曲がった空間になっている。もうひとつ奇妙なことは、この町では夢を見ることが禁じられている。それは、この町とそこに住む住民は、誰かの夢のなかの存在であるから。夢を見ることで、それを夢見ている人との意識や無意識が混入し、町の存在基盤が壊されてしまう。したがって、この町では物理的な実証よりも、心理的な根拠のほうが重要なのだ。このような静的な町でもときには不可解な事件、ときとして殺人が起こる。この町にやってきた夢探偵・万治陀羅男が4つの事件を解決する。

物見の塔の殺人 ・・・ 一階からのびた梯子は空間の外に出て、しかし2階の入り口に通じるという物見の塔。阿呆鳥公爵の住居にあるこの塔の周囲でパーティが行われていた。公爵の姿が見えないので、探したところ物見の塔の1階で墜落死していた。2階には公爵夫人がいて、1階のしたには夢見罪人が収容されている。ほかの登場人物は女中頭と警察長官のみ。容疑は2階の公爵夫人にあったが、彼女は首を絞められて失神していたのだった。事件の関係者は、エッシャーの「物見の塔」に描かれた人物と一致する。
無窮の滝の殺人 ・・・ 錬金術師の買い取った無窮の滝の塔で、白い袋に閉じ込められた錬金術師が餓死しているのが発見される。その塔は密室状態で、10日間以上人の出入りはなかった。また室内では大蜥蜴(エッシャーの世界ではトカゲや爬虫類は頻出する)が毒殺されている。さて、錬金術師は阿呆鳥公爵夫人の大学の友人で、公爵との恋愛に負けていたのだった。彼は錬金術で黄金を製造していたが、住居からは一切みつかっていない。謎解きは置いておくとして(なにしろ謎解きの最中に、いろいろな新情報が報告されるのだから、純然たる読者と作家の謎解きゲームはできないのだ)、気のついたところは引用の小説だということ。毒殺されたトカゲの名はノックスで、事件の様相は「密室の行者」で、この町の思想はグノーシス派の影響があるとか、この塔はエディプスコンプレックスのメタファーであるとか。どこかに書かれた情報を組み合わせているのだ。それも「夢」の世界であれば不思議のないこと。
版画画廊の殺人 ・・・ 版画画廊は「静物と通り」と名づけられた版画と同じ構造の建物。ここで17才の少年ラスコーリニコフが銃撃される。幸い軽症ですんだのだが、その数日後に少年の祖母が今度は射殺された。少年の母は、5度目の結婚と予定していて、祖母はそれに反対していたのだった。母マーシャはチェーホフ「三人姉妹」と同じ名の主人公と同じ境遇と性格を持っている。ここでも引用による小説という特長は現れていて、今度はドストエフスキーだ。
休憩住宅の殺人 ・・・ カストロバラバの町の唯一の娼館には、「上りと下り」の版画と同じ無限階段の塔がある。そこで、3回の爆破事件が起こり、セヴリーヌという娼婦を指名した客が殺されたのだった。彼女は、自分の性格と逆の傾向を持つ男性を好んでいたと同時に、錬金術の研究をするものでもあった。さて、ここではカストロバラバがほかの町にいるものの夢で構成されているという事情が強く押し出されて、さらには人物たちの無意識の欲望が夢で実現されるという二重の夢化が重要になっている。事件の解決のあと、探偵は自分のアニマに当たる人物と再会し、そして夢を見る。夢の中で夢を見ると、それは現実に他ならないという事態がほのめかされ、この町の冒険は終わる。

 タイトルに「殺人」と書いてあるので、ミステリとか探偵小説とおもわれるのであろう。たしかに小説の構造は探偵小説の枠組みにのっとっている。とはいえ、多くの探偵小説のように読者の物理現実の法則や法のルールが地続きで適用されているわけではない。ときとして、事件の解決は無意識の痕跡、事件をめぐる事物のメタファーによるのだ。そこでは、物証や状況証拠、証言との整合性などは問われない。重要なのは「真実」であり、それは「夢」とか「精神」などによって図られるのだ。というわけで、探偵小説の意匠をまとったファンタジーなのであるが、もしかしたらこれは読者の物理現実に合わない設定をした世界でどこまで論理的に謎を解けるかという実験であるのかもしれない。なので、これはアシモフ鋼鉄都市」「はだかの太陽」などと比べるべきなのだろう。こういう趣向の「探偵小説」はほかにあるのかな。もしかして小栗虫太郎「黒死館」くらい?
 1983年初出。今の作者とはずいぶん違うところで書いているようにおもう。

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M.C. Escher - The Official Website