「ハーロウ夫人がなくなって、遺産は養女に残されることになった。そこへ義弟が登場し、恐喝に失敗するや、養女が夫人を毒殺したと警察へ告発した。養女は弁護士に救いを求め、パリからアノー探偵が現地に急行する。犯人と探偵との火花を散らす心理闘争は圧巻で、犯罪心理小説の変型としても、サスペンスの点でも類例の少ない古典的名作!」
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488113018
養女のベティは殺害されたという時刻に、別の屋敷に呼ばれていたというアリバイがあったので、放免された。義弟ボリスは赤恥をかいて小説から退場。ここで3分の1なので、もったいなかったかな。その後、死体を再調査したところ、毒殺の疑いがでた。ある研究論文で、アフリカの毒矢の話が載っていて、資料提供したのは夫人のなくなった夫であるから。となると、事件に使われた毒矢(先端に赤粘土に塗りこめられた毒がついている)は、夫人の家にあるのではないか。そこで封印を解いた夫の部屋からは何も見つからない。さらに、養女の友人の若い女性アンが深夜に何者かにおそわれたとか、養女ベティの真珠の首飾り(10万ポンド相当)が盗難されたとか、ボリスの告発によると毒を精製した村の薬屋がなにものかに殺されるとか、そういう話が続く。この間アノーは思わせぶりな話をするだけで、養女もその友人もすっかりおびえてしまう。そこで、自動車(なんというハイカラでブルジョワな生活!フォードの大衆車はあったのだが)でピクニックにいったりもする(ここで恋愛の進展があるのと同時に、重要な手がかりがあるので注意すること)。でもって、凶悪な犯人が乾坤一擲の勝負に出る。それを追いかけるアノーとジム(法律関係者といいながら、頭の鈍いしかしハンサムな青年)。彼らは間に合うか!
1980年の少し前のHMMかEQかに高校生の論文が載って、そこでは「矢の家」「グリーン家殺人事件」「Yの悲劇」が同じストーリーで展開されているというのだった。そこに注目するようにして、類似点を書き出してみると(すでに当該の雑誌は廃棄処分済。同じことを抜き出せるかは自信なし)。
(1)事件が屋敷の内部で起きること(屋敷以外にでることはほとんどない)。
(2)当主が死に、遺産相続の問題が発生すること。
(3)事件のおきた一家には、血筋のない人間がいて、遺産相続の権利などで家族から疎まれていること。
(4)弱者(子供や若い女性)が殺人未遂に会うこと。とくに、深夜、何ものかの賊が彼らに手を掛けようとして失敗していること。
(5)開かずの間があり、その封印を解くことが事件に重要な手がかりを与えること。
(6)途中で、事件の経緯をまとめる文書が挿入されること。
全部で8点の指摘と思うが、これ以上は見つからない。まあいいや。「館もの」「田舎の一軒家の事件」だとありふれた趣向ですね、と後だしでしれっといいぬけておこう。ここに家族の解体とか、19世紀の女性の抑圧とか、そんなことを読み取ってもいいかなあ。探偵小説としてみると、登場人物が少なすぎて犯人の特定が容易(だからボリスをもっと活躍させればいいのに)、思いつきの殺人が続いて周到性にかける(そのかわり若い女性が誘拐・殺害されるかもしれないというサスペンスがある)という問題がある。その一方で、アノーの説明によると事件の解決はプロットを再構成することではなくて、容疑者の一挙手一投足を観察することで遂げることができるという。すなわち物語の語り手であるジムが若い女性二人にのぼせて、彼女らの行動に目を奪われるという描写の最中にさりげなく書かれた不審な行動を見つけることが必要なのであった。これは英国文学の伝統を濃厚に反映しているだろうなあ。ジェントルマンとレディはめったなことでは真意を語らないのであって、恋愛といえどもひそかな相手の観察のうちに発見するものである、そんな小説なのでした。その時代から遠くはなれた自分には少しばかり冗長だったけど。
解説にあるようにアノーはポワロの先駆者。イギリス人のみたフランス人やベルギー人というのはこういうもったいぶった、うぬぼれの強い、衒学的でスノビッシュな、風采にとことんこだわるというふうにみなされるのかしら。あいにくアノーにはポワロの稚気がないので、愛すべき人物にはなりませんでしたなあ。
1924年初出。
あと、これは福永武彦訳。彼の翻訳はこれ一冊(探偵小説に限る)と思う。伊丹英典はスタイリッシュなところをのぞくと、アノーににているかな。1959年だとすでに伊丹氏は登場済。