1968年の刊行。都留重人のほか、数名の学者による共著。特徴的なことは、科学の研究者、政治に関係する人ではなく、主に経済学者が取り組んでいるということ(ちなみにマルクス主義経済学者は入っていない)。
公害研究の古典という位置づけ。おそらくこれほど浩瀚な公害研究がまとまったことはなくて、かつ当時進行中の問題に対する提言も豊富に含まれている。いくつかの概要を。
1.公害の定義はとてもむずかしい。産業の変化、技術の変化、生活様式の変化、人口の増減などによって、公害とされるものは変化していく。
2.公害問題の端緒を紐解くと、16世紀イギリスまでさかのぼる。皮革工場が貴族の館の近くにでき、汚臭と煤煙がでてくることから、貴族が工場主を裁判にかけ、罰金刑に処したあたり。しかもそれがきっかけで、ブルジョアの政治参加と自由経済を求める「革命」が始まる。
3.公害の対策をたてるにあたって、経済学的な分析が有効。公害防止費用と発生後の賠償費用や対策費を比較して、どちらが低コストで実現できるか、他者危害を防ぐことができるかの判断ができる。もちろん、その議論の前提は環境分析、易学その他の科学の知見が必要。
4.この国の資本主義は、国家が資金提供者やインフラ整備者となることによって、個別資本の成立と発展を促してきた(西欧だとそれらの投資は個別資本が行ってきた)。そのため、国家や自治体の政策は産業奨励、企業防衛などの観点で行われてきて、それが公害の効果的な対策を阻んできた。その一翼を労働組合や革新政党も担ってきた。このあたりの特殊な状況は、カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎」に書かれたような「日本」的な仕組みや意識が働いている(というか当時の公害反対運動などを見てきたことから、「日本」的な仕組みや意識に気づいたといえないか)。
5.1960年代では効果的な公害防止政策が採られることは無かった。それが変わってきたのはたぶん1980年になってからで、そうなったのは1960年代当時の権力者が引退、死亡し、次の世代が権力者になったため。この本に記載されているように、公害対策はそれまでの経済や経営の思想の根幹を変えないといけない。それを当時の60代70代の権力者はできなかった(成田空港の問題もそう。地域開発の仕組みを変えないと問題が解決できない。それを国家の意思をパワーで住民に押し付けようとするところから、問題が複雑で重大化していった)。このころになって、ようやく公害発生者が費用を負担する、開発の前にアセスメントを行う、住民に対する情報開示と討論の機会を設ける、などの解決方法が運用できるようになった。現在でもそれは十分とはいえないが(とはいえ、2009年の民主党政権は1960年代の大規模開発を否定するような動きをしている)。
6.とはいえ、公害問題が取りざたされるようになったのは、1950年代だった。その間にいかに多くの被害者が発生し、亡くなったことか。それどころか40年を経ても、被害者救済が完了していない。彼らを救済できず、公害の拡大を放置したことは、この国の極めて大きな汚点、失政、失敗。
(ここは単なる感想。1950-60年代にほとんどの企業経営者、保守系政治家、官僚は公害防止のための投資に反対した。あるいは抵抗した。それから30年たって2000年に入ると、企業の側が「わが社の製品はエコである」「わが社の工場は廃棄物ゼロである」とうたうようになった。これは人々の意識が変わったということで説明される。自分の感想では意識が変革したのではなく、人が入れ替わったからだ。1950-60年代の経営者、政治家はおそらく時代が変わっても意見を変えはしない。だが、高齢になって引退し、経営や政治の決定権を持たなくなる。そして死亡する。代わりに、当時下っ端で公害防止が重要であると自ら考えたり教育を受けたものが年をとって、経営や政治の決定に参加できるようになった時、かれらの考え方が主流になっていた。そのような入れ替わりはエリートやインテリだけではなく、社会全体でおきている。意見の異なる人が入れ替わることによって、社会の決定や仕組みなどが変化していく。希望があるとすれば、ここにおいてなのかもしれない。)