odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

松下竜一「砦に拠る」(講談社文庫) 1960年代、下筌(しもうけ)ダム建設にひとりで「蜂の巣城」を作って抗った奇想天外な運動。

 1958年、大分県と県境にある小国町の集落にダム建設(下筌(しもうけ)ダム)の話が起きた。なんとなればその前年の未曾有の大雨が筑後川を氾濫させ、久留米市などで死者150名余をだす大災害となり、治水のために上流のダム建設が必要とされたからだった。ここで起きたのは、地主の室原智幸。かれは集落の約40戸200人の住民の指導者となり、以後十数年後の死亡の日まで、ダム建設反対運動を行ったのだった。その奇想天外な運動は、(1)ダム建設予定地の崖に数十の小屋と渡り廊下を造り、そこを砦としたこと(その土地の名と流行の映画タイトルから「蜂の巣城」と呼ばれ、大島渚がTVドキュメンタリー「反骨の砦」を撮影した)、(2)80件余の訴訟を起こし、法廷闘争を行った、(3)アヒル、牛、馬などを現場に放ったり(一羽でも行方不明になれば、損害賠償請求訴訟を起こす)、立ち木の所有者を多数にし頻繁に変更する(立ち木の伐採には全所有者の承認が必要になり、建設者の事務処理を煩雑にし建設を遅らせる)、(4)運動は室原一人によって指導され、合議も会議もないものであった、あたりか。
 自分がまだガキのときに読んだ感想は、一人で反権力を闘う室原カッケー、蜂の巣城の攻防戦血が騒ぐゼー、途中で脱落した連中ダッセー、だった。

 老年に足を突っ込み、室原が決起を決めた年齢もそう遠くはないというときに読みなおすと、物事はそう簡単に断じられない。苦渋を持つことになる。
・地主が指導者であり、運動活動費用(砦の建設に関わる費用、住民への日当、食費酒代、弁護士費用、訴訟費用その他)は丸抱えだった。とはいえ当時の金で毎年1千万円。闘争期間の全費用は現在価値にすると10億円を越えていたのではないか。これに加えて、指導者である室原の類まれな個性(きかんきが強く、何事も自分で決めなければ済まずにいられず、他人に命令されることが大嫌い、他人の侮辱や反抗にはすぐさまかんしゃくを起こす)による強い精神力がなければ、継続はしまい。1960年後半には各地でダム反対運動が起こり、多くの人が室原の助言を請いに来たが、このような話は聞き手にため息をつかせるものであった。
1920年代に、その村では唯一早稲田大学政治学部に進学し、六法全書を懐から外したことのないがないという学生。その後、村に帰ったとき60歳直前のダムの話を聞くまでほぼ無為であった。したがって、ある種この闘争は彼の自己実現であったと思えるのであるが、闘争方法が上記のようにユニーク。とくに、ダムの「公共性」をめぐる議論は当時としても先進的である。単純にいえば、100万人の利益のために一人の財産と主権を侵害してもかまわないか、という問題だ。もう少し突っ込むと、100万人の利益を建前として、ダム建設による利益を企業と官僚が横取りする構造を認めるのか、ということにもなる。なるほど、1957年の洪水は多くの死者と建物、公共財、農業などに被害を及ぼした。それを解決する手段としてダムを国や県は持ち出したのであるが、ダムのみが治水の解決策であるかどうかの検討は不十分である(それを室原の訴訟は明らかにする)。砂川基地闘争という前例はあるものの、この「公共性」の問題を全面に提起したのは彼が最初であり、「三里塚」という手ひどい失敗とあわせて、この国の行政はあり方を変えることになる。そう簡単には強制代執行という「暴力装置」をはたらかせることができない状況にしたのだった。
・地元でダムに徹底的に反対したのは50歳以上のいわば老人たちで、当時働きの主力である20-30代はむしろ建設に賛成であった。山林業が現金を生み難いものであり、しかも外国産木材により価格は下落し、事業としての魅力が薄れつつある。したがって、室原の重大な訴訟の敗訴(それによりダム建設に法的根拠がでて、運動の敗北が決定的になる)ののち、若い指導者を中心に反対運動から別れ、独自に建設省などと交渉し、地区ごとまとめて移住したのであった。この判断や行動を非難する根拠を自分はもたない。どころか、この種の問題を解決する優れた方法であり、ケーススタディの対象になるとおもう。それは九地建や顧問弁護士などについても同じ。
・地元の人たちのほとんどが交渉を開始するようになってから、運動には周辺の県下の労働組合革新政党の党員が参加するようになった。もちろん、闘争の山場である強制代執行には数百名が動員されるのであるが、非暴力を貫く彼らは機動隊や警官の排除に唯々諾々としたがうのである。川を挟んだ広場でシュプレヒコールなどするのであるが、室原の目からは翌日から彼らは来ないというのが見えている。実際その通りになった。
・心にしみるのは、運動の後半になって、室原一家をのぞくすべての家が集落を出てしまい、老夫婦と娘一人が残ったというところ。集落に人がいないので、もはやバスも通わず商店もなく、買出しには山を越えるほどの移動が必要(しまった、書き忘れたがこの村には水道がなく、川か泉からくみ出してこないといけないのだった。室原の奥さんは一人で毎日水汲みにいったのだ)。電話で医者を呼び出しても徒歩で来るしかなく、数時間がかかる。そこから見える蜂の巣湖は風光明媚であるとはいえ、生活を営むのは無理なのだ。そのような限界集落の孤独と不便。室原の晩年には、集落のものよりダム建設を進める組織のほうが彼の身辺に近しく、最後を看取った一人もそのような人だった。
・室原の運動がきわめてユニークだったために、記録がほとんど残っていない。そのため、著者は亡くなった直後あたりから聞き取り調査を行った。まずその取材に敬意を表する。彼の活動(しかも自身は豊前火力発電所建設反対運動の主体であった)がなければ、記録は残らなかっただろう。その点でこの作は荒畑寒村「谷中村滅亡史」と並べられるべき。とはいえ最も印象的なのは、各章の冒頭にある室原の奥さん(ヨシ)の方言による述懐。山に生きること、他家に嫁ぐこと、夫の指示に従うことなど、明治から昭和の女性の典型がここにいる。石牟礼道子苦海浄土」(講談社文庫)をあわせて読まれるように。

    

 「蜂の巣城」で検索すると当時の写真を見ることができる。九龍城か千早城かと思わせる不思議な砦や大島渚のTVドキュメンタリーをみることができる。
蜂の巣
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