odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

アンナ・カヴァン「氷」(サンリオSF文庫)

 奇妙な小説だ。世界が突然、氷で覆われることになり、行政・国家機能が停止する。北の国から徐々に氷河に襲われるようになり、次々と氷の下に埋もれてしまう。人は南に逃げていくが、氷の速度が上回る。この環境激変の理由は一切説明がないし、それに対抗しようとする人々の活躍の記録もない。
 主人公の「私」からしても、彼はかつて国家の秘密を担うような仕事をしていたらしいのだが、彼はこのような危機に直面してもその経歴を生かそうとしない。ただ、かつて彼の下にいて今は「長官」に囲われている「少女」を奪還しようと考えるばかりだ。このインテリ風な男(ほとんど全てにわたって性別が判明しないのだが)は、暗い内向的な性格でありながら、「少女」を奪還しようということに関しては、スパイ顔負けの行動力と陰謀力を持っている。それでいて、「少女」を奪還して彼女との生活を始めても、「私」は彼女を陵辱し軟禁するばかりなのだ。それは「少女」が「私」をひどく嫌っていて、口も聞かず、食事を拒否し、暴れるからなのだ。「私」は「少女」を自分のところに引き止めたいと思っているが、彼女の拒否のためにそれはかなわず、「長官」に帰してしまう。この二人の間にも、精神の氷、溶け合わない暗黒が生まれている。それは次第におおきくなっていくのだ。
 一人になった「私」は南に逃げようとするが、そこにも氷は追いついてくる。そして一人でいる長い時間を置いたあとに、「私」は再び「少女」を「長官」の手から解放しようと考える。国家機能を失い、「長官」が独自の軍隊の力で統治している北の国に「私」は出かけ、もう一度、冒険小説さながらの活躍をして(この統治している国は東欧の収容所群島を思わせるリアルな描き方だ)、「少女」のもとにたどり着く。そのような状況になって、初めて「少女」の心は「私」に開かれ、「私」と「少女」は喜びと満足を感じるのだ。そのときには、彼らのいる場所を除いて完全に氷が覆い尽くしている。すでに、この世界には救いがない。
 ここには三つの死がある。自己の死。人類の死、地球の死。エントロピーが増大し続け、元の状態に回復することはない。消滅する熱。奇妙なことに地球や人類の死滅を前にした登場人物は、自分自身の死を意識しなくなっている。そういうメンタルな問題がなくなってしまうほどに、フィジカルな虚無が世界を覆いつくしているのだ。

 登場人物はすべて名前を持たない。「長官」「運転手」「男」などの記号に還元されてしまっている。記号に表された以上の個性は、もはや世界の氷化の前では意味や価値を失っている。希薄な人間関係と虚ろな表情。「私」が「少女」に向ける欲望も、少女そのものを欲しているからではなくて、欲望することを欲望するだけのように見える。そこでは、「私」の感情や欲望もまた氷化していて、純粋な形象に転化しているのだろう。「私」と「少女」が理解しあえて、ほのぼのとした(しかし僕らの生活の感情からすると温度はとても低い)情景に至ったとしても、その冷たさは限りがない。
 希望があるとしたら「インドリ」という熱帯の獣だけだろう。しかし、この獣は「私」の回想にしか現れない。もしかしたら「インドリ」は「私」の精神の中にしか実在しないのかもしれない。「私」は物語半ばまで「インドリ」を研究することを希望していたが、それが住む南の島への渡航が断念されてからは、もはや思い出すこともしない。「私」が希望を断念するところから、世界の氷化が一挙に進むのだ。

  


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