odd_hatchの読書ノート

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F・ポール・ウィルソン「黒い風 下」(扶桑社文庫)

 物語を推進する原動力は<隠れた貌>の暗躍であるが、その全貌を知り、未来を予見できるものは一人としていない。それゆえ、大枠は史実の通りに進み、226事件真珠湾奇襲、ミッドウェー海戦アリゾナの原爆実験、8月6日の広島投下までがそのとおりに記述される。

 主人公は大久茂松男という日本人青年。彼は父の秘密の命令でサン・フランシスコで育つ。それゆえアメリカの自由主義個人主義を教育されるが、それよりも老武士による大和魂と武士道の教えのほうが身についている。「忠」と「義」を規範とし、恐怖や悪に対して立ち向かう勇気を持つこと。異国で暮らすために、かれの規範はアメリカの世間と食い違うし、1930年代の不況と軍国主義政権下の不自由な世界は彼に叩き込まれた「大和魂」を体現するものではない。このように世界のどこにも所属できない個人の鬱屈があらわにされる。世間との齟齬があらわになるのは、サン・フランシスコのいじめ体験であり、兄の許嫁との恋愛であり、アメリカとの決戦を望む軍人たちとの仕事、自分の子と思っていたのがアメリカの友人の子であると知れること。自分のやりたいこと・望むことと、世間が求めること・成果にしてほしいことに隔たりがあり、彼の煩悶は根深い。
 そこに登場するのは、兄・弘樹の存在。大久茂家は男爵を持つ由緒ある家系であるとはいえ、新興のため政界・財界への力は弱い。そこに付け込んだ<隠れた貌>は大久茂家の二人の息子が宗団の栄光と破滅をもたらす幻視で彼らに近づく。その結果が松男の渡米であるが、一方兄・弘樹は宗団に食い込み、政界に隠然たる勢力を持つにいたる。父もまた宗団の後ろ盾でもって経済界を制圧することをもくろむのである。さて、これらの望みはかない、彼らは昭和10年代に勢力を拡大する。しかし弘樹から見た時、松男は優遇されているとみえ(父から秘密の使命を与えられているとか、許嫁の明子と仲が良すぎるとか)、兄と弟の間はしっくりいかない。かの国ではカインとアベルの再話になるわけだ。この二人の安生 愛情と反目、そして敵対までは物語の主要な部分。
 松男に体現される「二つの祖国」問題は、明子(メイコ)でも再現される。もともとは弘樹の婚約者であったが、父・大久茂男爵の意向によりアメリカ留学を果たす。そこでの松男およびフランキーとの出会いが彼女を封建子女から自立した女性に変える。この小説において、彼女は劇的変貌を遂げる。ライフイベント(婚約、海辺での誘惑、別離、入水、ハワイでの独り暮らし、帰国、出産、誘拐などなど)が起こるたびに彼女は受け身から行動者に代わる。それこそ昭和20年の移動困難な時代に自動車、自転車、徒歩をかけて、東京から広島までを一気に踏破するほどに。
 そして明子に惚れこむフランキーの存在も。松男との友情が勇気の欠如により失われ、さらには明子との結婚も破綻し、酒に浸る自堕落な軍人であるものの。要所要所で、こころならずも松男と再開し、アイデンティティの危機を迎える。それが明子と再会することにより自身を回復するまでに至る。
 こうして兄と弟の葛藤、美女をめぐる3人の争奪戦が繰り広げられ、三者三様の自己変容を経る波乱万丈の物語が語られる。そのとき作者は一度も姿を現さず、語ることに徹している姿は潔い。
 今回の自分の読みはどうしても彼らの小状況に注目するものになってしまった。中状況では、対米開戦に至る情報戦に、<隠れた貌>宗団による政権の操作、「黒い風」秘術の獲得と復活など、触れるべき点は多い。これは次回の再読の楽しみにまわすことにして、ともあれこの小説があることを喜びたい。

黒い風〈下〉 (扶桑社ミステリー)

黒い風〈下〉 (扶桑社ミステリー)