odd_hatchの読書ノート

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都筑道夫「雪崩連太郎怨霊行」(集英社文庫)

2015/06/08 都筑道夫「雪崩連太郎幻視行」(集英社文庫)


 すごいどうでもいい話をすると、この本の最初のタイトルは「雪崩連太郎幻視行/怨霊紀行」だった。マンガ家たがみよしひさがこの作家のファンらしく、最初に刊行された短編マンガ集のタイトルは「怨霊紀行」で、主人公はトラベル・ライター。
 「幻視行」に続く連作第2弾。

五百羅漢 ・・・ その五百羅漢のある寺には明治のころに即身成仏を果たした尼さんがいて、天下の危機には声が聞こえるという。関東大震災終戦の直前にその声は聞こえた。そして今、声を聴いたという噂が出ている。雪崩はその寺の住職に会いに行き、今度は尼の幽霊を見たという女性とも話を聞いた。クリスティ「ゼロ時間へ」に通じるような物語。ここでは合理的に話のつじつまがあう。

鬼板師儀助 ・・・ 明治のころの鬼板師(鬼瓦専門の瓦師)が作った鬼瓦は、あまりの迫真性のためにときおり鳴き声を出すという。それは鬼板師が最後の製作の時に土地の物となにかよからぬ話になったからだ。雪崩はその寺に行きたくなかったのは、8年前に振った女がいるからだった。鬼の鳴き声が届いたのか、雪崩は昔の女に再開し、鬼瓦の鳴き声の謎を解かねばならなくなる。いっしょに高い屋根に上ったとき、それはおきた。8年間の間におきたそれぞれの人生が再開から喜びをなくしてしまう。

三つ目達磨 ・・・ その寺では達磨大師の命日の夜、5年ごとに3つ目の達磨を奉納することになっていた。それを制作するのは、かつての地主で今は人形師の檀家総代。最後に目を入れるのは15、20、25歳のいずれかの処女。奉納に立ち会った雪崩は三つ目の達磨の因縁を暴く。「怪奇小説という題名の怪奇小説」の再話じみたホラー。ちょこっと「鉄鼠の檻」に似ている(こちらがずっと前)。

六本足の牛 ・・・ 藁の牛を奉納する裸祭。その取材先の浴場で、雪崩は女に匿うように依頼される。男が無理強いをするというので、雪崩は頼みを聞き、そのまま部屋にいく。翌朝、男は殺されていた。その夜、裸祭に参加した雪崩は、彼に声をかけた中年が殺されているのを発見する。この奇祭があるのが伊賀地方であるというのがミソ。

色玻璃なみだ壺 ・・・ 娘が嫁にでるときに、涙を集めた壺を実家に残す風習が残っている。その村は過疎の村。その一族以外は誰もいない。女ばかりの家で雪崩は歓待を受け、しびれるような歓喜の夢の中で、女たちと交わる。これも「怪奇小説という題名の怪奇小説」の再話じみたホラー。ちょこっと、高橋留美子「人魚は笑わない」に似ている(こちらがずっと前)。

からくり花火 ・・・ 明治のころの花火師がからくり人形に花火を仕込んで、劇を演じさせるという技をつくった。偏屈な花火師は秘伝にしたため技は失われた。現代(1970年代)の花火師が復活に成功。その陰には、身持ちの悪い女が明治の花火師のからくり人形を発見したから。花火師に恋心を持つ娘と三角関係になり、祭りの夜のからくり花火蘇演の幕が開く。花火の祭りの様子が、闊達な筆で描かれ、銀や金の光を見るよう。

小函のなかの墓場 ・・・ 先代が奉納した芥子人形には奇妙なことに葬列だった。それは人の死や不幸を予告するという(夜中に動いたりうめき声をあげたり)。そこで代々祥月命日に供養することになっている。雪崩が取材に行くと、現在の当主の女から護衛してくれと言われる。実は、ひも男につきまとわれているのをどうにかしたいという相談だった。男が狂言自殺するのを止めた後、女は失踪し、男は死体で発見される。


 雪崩は怪奇を呼び寄せるが、事件を解決したり、問題を調停することがない。ルポライターという職業がそうさせるのだろうが、彼は人の心に深く入っていくことをできるにもかかわらずしないから。作者のほかの探偵は、おせっかいでしゃしゃりでたり、いやいやながらの探偵をすることもあるけど、雪崩は例外的にそうしない。このクールさやニヒリズムが、ほかの探偵と頃なるところ。行く先々の女の誘惑にはちゃんと乗るのだけどね。
 1970年代は「ディスカバリージャパン」の標語がでたように、60年代までの外向けの気分が一転して内向きになったとき。そこで古く忘れられた事物や風習に対する関心や興味がでてきた。これもそういう流れにあるものだろう。まあ、1980年代の荒俣宏帝都物語」や90年代の京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」みたいな日本の妖怪までは取り上げていない。まあ、当時だと横溝正史の和風ゴシック・ロマンスまでが読者の受入可能な限界だったのだろう。そのかわり、取材先は全国各地にのぼり、奇祭や珍奇な建物・事物の紹介があって、観光案内みたいな趣き。
 さて、ほとんどの短編で物に因縁がついている。たいていその種の因縁は古臭いこと、科学的でないことなどを理由に、所有者本人も信じない。奉納された寺社の関係者も一蹴する。でも、ときにひとは因縁を信じる。信じることは、現在の彼/彼女の問題を解くための手がかりになるから。ただ、その信じ込みがあまりに長年にわたっているために、因果が逆転して、人が物に囚われてしまう。それが多くの事件の原因であり、遠因になっている。

    

 たがみよしひさ「怨霊紀行」は30年以上前の出版だから、今は流通していないようだ。