odd_hatchの読書ノート

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ロバート・マキャモン「少年時代 下」(文芸春秋社)-1

 2019/02/25 ロバート・マキャモン「少年時代 上」(文芸春秋社) 1991年

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 続けて後半。1964年を振り返れば、前年にケネディ大統領が暗殺され、ベトナム戦争がはじまり、反体制の運動が胎動しているころ。大都市から見ると、アメリカは「古き良き時代」ではなかったのだが、南部の田舎町ゼファーではそのような世界の変化は起きていない。せいぜい産業と消費の変化で旧態のビジネスが衰退するのが垣間見えるくらい(しかし、数年後にはコーリーの数歳上の世代が志願兵になってベトナムに行くであろう)。まだ昨日よりも今日がよく、明日はもっと良くなる、そして社会はそれほど変わらないと信じていられる時代だった。その鷹揚さがノスタルジーとなり、ブラッドベリ「たんぽぽのお酒」のような雰囲気をもたらす。そのような場においてこそ、これらの子供の成長小説は成り立つのだろうなあ。

第3部 燃える秋 ・・・ 秋は新学期であるが、暴力と死の時期でもある。秋の始まりは夏休みに書いたフィクションで町の大人たちを魅了し、いやな担任の意外な趣味(小鳥飼育)を発見するのでもあったが、まず犬のレベルが事故で死亡(しかしコーリーの祈りのためにゾンビになってしまい、安楽死を決めなくてはならない)。ブランリン兄弟がそれぞれの大事なものを破壊したとき、コーリーと友人らは年長の兄弟と対決しなければならない。ならず者のブレイロックの弟はコーリーと売春宿の娘を拉致して、車を異常な速度で走らせ、二人を恐怖に陥れる。彼の殺した男(娘のフィアンセ)の幽霊は弟の気を狂わせる。裁判所に送られる弟を奪還するためにブレイロック一家は保安官事務所を襲撃すると予告したが、町の大人は協力を拒否し、逡巡した父を入れた4人で正午を待つことになる(コーリーは父に「平安は戦って自分のものにする」と後押しをする)。コーリーは映画「シェーン」のジョーイ少年よろしく映画「真昼の決闘」を物陰から見守ることになるだろう。カーニバルがやってきたとき、見世物に「トリケラトプス」を発見し、少年が与えたキャンディー・バーは長年鎖につながれた獣を野生に戻すことになる。
第4部 冬の冷酷な真実 ・・・ スーパーができたために父は牛乳配達を解雇される。コーリーの友達は猟の事故で死亡する(コーリーは瀕死の友達のために即興の物語を語る)。コーリーは死と暴力に圧倒されて、町と家族を捨てようとする。途中であったフリークスに汚わいのと暴力の街の夢を見る(邯鄲の夢みたいな話)。クリスマス、ブルートン部落のパーティに出席。ザ・レディと再会。その夜、近くの基地に帰投する爆撃機が不発弾を町に落とす。それはKKKの一員の家だった。父はザ・レディの力を借りて、湖に引き込む男の声の悪夢を克服する。春の事件の謎が解ける(コーリーは犯人に拉致され、激しいカーチェイスに巻き込まれる)。コーリーは父を理解できた。
第5部 今のゼファー ・・・ 1991年。ストーリーテラーになった「わたし(コーリー)」は四半世紀ぶりにゼファーの街に寄る。妻と子がいて、自分の父と同じ役目を果たしているのを見出す。登場人物たちのその後が語られ、大いなる安堵をもって長い物語が終わる。
(アーヴィング「ガープの世界」「ホテル・ニューハンプシャー」みたいな律儀な結末。)

 

 タイトル「少年時代(boy's life)」は1950年代に出ていた雑誌の名前だとのこと(ついでに「ハーディ・ボーイズ」も。その名を付けたプロレスの兄弟タッグチームがある)。ほかにも1950-60年代の映画、音楽、小説、マンガなどの固有名がたくさんでてくる。その名を聞くだけでも、読者はノスタルジーにかられる。たとえば、コーリーの13歳の誕生日の贈り物はブラッドベリの「太陽の黄金の林檎」(最初に読むのは「霧笛」)。このタイトルを見ただけで、ほぼ同じ年齢で同じ小説を読んだ自分は胸がきゅんと高鳴る(希望をいえば「霧笛」でなく「みずうみ」だったらよかったなあとも)。他にも多数の固有名が出てくるので、それも楽しもう(それは1970-80年代のこの国の子供たちも、同じものを翻訳やテレビで体験してきたということだ。それだけ、この国の文化の一部はアメリカの文化に依存している)。
 マキャモンの長編には、子供や青年の成長がテーマのひとつになっているが、この長編では主題になっている。あらゆるできごとは意味があり、それぞれの課題や試練を克服することが、彼の成長や成熟を促すものであり、自身の変化を起こすころになる。この長編の技法では、試練は形を変えて二回起こる。年長の中学生からのいじめは二回あり、二回目には反撃をして彼らへの暴力は病む。猿のルシファーが逃げて森の中に住み、カーニバルから逃げ出したトリケラトプスも森にすむ(彼らはコーリーへの暴力を救う力になって姿を一度現す)。コーリーは夏の野宿のあと、秋に家出をして遠くの街にいく列車に乗る(無賃で乗るのはホーボーの伝統を継いでいる)。愛犬レベルの死を上手く克服できないあと、事故で瀕死になった友達のためにしっかりと慰め励ますことができる。黒人の修理人はコーリーの家の問題を片付け、二度目の登場では町の危機を救う。コーリーは二回大人に拉致され、危険なカーチェイスに巻き込まれる。なにより、冒頭の湖での事故の目撃は、最後にも湖での救出劇になる(最初の事故を見るだけだった父は、それがトラウマになるが、ザ・レディのコーチングで克服した後、息子を救出する力を発揮できる)。
 重要なのは、成長がこの国の小説にありがちな分別をつけたり、意味を理解できることではなく、正義が何かを判断し実行できるようになるということ。たとえば、年長のいじめっ子とのトラブルは吉野源三郎君たちはどう生きるか」にも現れるが、この国では実行できなかったことの意味を友人に理解されるまでであったが、この長編の子供たちは自分の力や勇気で暴力に対応しようとする。父は黒人に対する偏見を持たないようであるが、彼の行動は結果として差別する側に加担していたのであるが、洪水が起きて町を守ろうとするときに黒人部落を守る行為に参加する。それはのちに、ブレイロック一家との「真昼の決闘」で数少ない対決者になることにつながり、進んでザ・レディに助けを乞うように行動するまでいいたる。ほかにもそのような暴力や差別にあらがえなかった人たちが正義を実行するようになる。重要なのは認識することではなく、行為に移すこと。
(一応言っておくと、この場合の正義は「人を殺してはならない」「盗んではならない」「嘘をついてはならない」というどの共同体でも共有できる普遍性をもつものだ。人類の長年の経験で、自然と培われた、だれでも同意できる正義はある。それを実行しようということ。ここには「正義は複数ある」「どっちもどっち」みたいな安易な相対主義はないので、しっかり把握するように。)

   

 

2019/02/20 ロバート・マキャモン「少年時代 下」(文芸春秋社)-1 1991年