odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

松尾尊兌「大正デモクラシー」(岩波現代文庫)

 「内には立憲主義、外には帝国主義」とまとめられる大正デモクラシーの、別の、多彩な面をみようとする研究。もとは1974年に刊行。
 大正デモクラシーは1905年から1925年にかけての民主主義運動。主な政治目標は、普通選挙の実施、軍縮と徴兵制の改革、税制改革(塩の専売、綿糸などの直接税などで、インフレ進行中だった)、表現・集会の自由獲得など。自由民権運動との違いは、運動の担い手が村落などの地縁共同体から、労働者・インテリ・学生などの都市の富裕層に変わったこと。もうひとつは、彼らの運動組織を結ぶ全国組織ができた。さらには、西洋の社会主義の影響を受けた組織ができたこと。運動で獲得できたことは、藩閥政治をやめさせ、政党政治を実現したこと。ただ、政党内部の抗争があったために、政策は中途半端に終わり、とくに第1次大戦後のインフレと不況に有効な対策を取れなかったために、短命に終わった。
 この本では「第一次護憲運動米騒動・普選運動・青鞜社友愛会・日本農民組合等々の主要テーマもそれ自体としては取り上げていない(はしがき)」とあるので、全体像をこの本だけでつかむことはできないことに注意。自分もこの時代の歴史知識は少ないので、何かで補完しないといけないなあ。

日露戦争講和反対運動 ・・・ 民衆が参加する政府批判運動の先駆けとして1905年9月にあったこの運動を見る。通常は反動イデオロギーとみなされるが、むしろ藩閥体制批判、言論自由の獲得、警察の横暴批判があり、後半には講和反対よりも藩閥体制批判→立憲政治体制要求へと主張を変えていった。また暴徒にも、インテリ・小ブルが参加していたことを重視(運動の組織者は弁護士、新聞記者など。背景には、戦争による増税、桂内閣の民衆無視、警察の横暴への不満などがあった。

軍国主義に対する抵抗 ・・・ 日露戦争後、軍部が政治勢力として台頭。藩閥官僚と組んで、国家主義政策を行う。軍備拡大、軍隊増員のために、国家予算の3分の1を当てた。残りで国債償還と通常予算を消化するので、公共投資や教育・福祉などは不足し、かつ増税を行った。おりしも1907年に戦後恐慌が起こる。そこで、ブルジョア中心の悪税反対運動が開始。商業会議所と野党が中心にロビー活動。在野では社会主義者は悪税反対と普選要求の運動を開始。民衆参加はほとんどなかったようで、運動の成果はなかったらしい。この時代には内務省と警察が手を合わせて、言論・集会・出版などの自由を抑圧し、大衆運動を弾圧する「指導」を行っていた。(だから、戦後の進駐軍内務省解体と警察の民主化を推進したのだった。)

急進的自由主義の成立 ・・・ 大正デモクラシーの理論の先駆としての「東洋経済新報」。のちに石橋湛山主筆で有名だが、1910年代では片山潜の影響(社員であった)が大きいという。主張は、軍縮、税制改革、自由貿易、植民地放棄など。

地方的市民政社の発生 ・・・ 表題の例を鳥取市にみる。最初は同好会だったのが、数年で政治結社になったとのこと。これは大正デモクラシーとか民本主義の普及で見ると不充分で、同時期に大日本雄弁会のような国家主義的な組織も、社会主義的な組織もあり、青年運動の政治化という文脈で見る必要があるとおもう。この政治運動の挫折が20年代白樺派などの教養主義に変化したのは、三木清のエッセイにあるとおり。

第三帝国」の思想と読者 ・・・ 大正デモクラシーの啓蒙活動および結社運動を行った雑誌「第三帝国」の紹介。地方インテリ、中級の資産階層に民主主義や普選などを啓蒙した。

「冬の時代」の社会主義者 ・・・ 大逆事件ロシア革命などの影響で社会主義組織への弾圧があったが、一方民本主義は運動を拡大した。このときに、社会主義者民本主義者が協力し合う光景があった。著名なのは寺内内閣時代に、堺利彦が代議士立候補した際に(1917年)、漱石一派、青鞜一派、藤村・花袋など文学者が支援の文章を寄稿したこと。あいにく、社会主義者堺利彦民本主義者・吉野作造の合作はならなかった。こういう民主主義者と社会主義者の統一戦線政策は、のちに共産党ができて、社会主義者を攻撃するようになって中止される。ロシアで有効な戦術はこの国ではだめだったことの例証になるかな。まあ、スペイン市民戦争でも共産党社会主義者アナーキストを弾圧したのだった。

部落改善より部落解放へ ・・・ 1918年の米騒動は他のさまざまな社会運動、民衆運動に影響を及ぼした。そのなかで部落解放運動をみる。奈良県の部落でだした同人誌が、改善運動から解放運動に転化し、水平社との協力関係を築くまで。「官憲」は部落の有力者を抱え込むことで改善運動を指導したが、修養・教育程度の上からの融和策では事態は改善しない。いくたの差別事件を経て、青年たちは解放運動に参加するようになる。

普通選挙・治安立法と社会主義者 ・・・ 普選運動には中道より「左派」が参加し、上記のように民本主義者と社会主義者の協力体制もあったが、戦後の1921年ころから状況が変わる。すなわち、ロシア革命の影響をうけてか、社会主義者アナキスト共産党員(1921年設立)に数年後に革命到来という希望的観測が流れ、普選運動の参加を拒否するようになった。また治安維持法前の自由制限の諸法が国会で審議されるときに、反対運動を組織しなかった。結果として起きたのは、官憲の弾圧(デモでの拘束、党員の逮捕、労働組合への圧力など)によって、これらの「左派」の活動が低調になった。「左派」組織が弱体化したあとに、官憲は「中道」の組織、民本主義者や労働組合への圧力を増していく。それに追い打ちをかけたのは1923年の関東大震災。ここでの排外主義や差別が治安維持法の制定につながり、民衆運動がなくなる。最初に左派の急進主義者をなくし、そのあとに穏健派。同じことを右派にも行う。その根拠となるのが、新聞条例や集会条例などで、要するに自由を抑圧する法令があれば、権力はその解釈を恣意的に拡大することができ、恣意的に運動関係者を処罰することができるのである。上記の「左派」組織とその主要活動家の状況認識や活動の愚かさを笑うこともできるが、より大きな問題は権力が自由抑圧の根拠となる法令を持つこと。

民本主義者の朝鮮論 ・・・ 「内には立憲主義、外には帝国主義」といわれる大正デモクラシー時期の朝鮮論を概観。このような見方をするものは、国家主義者にも民本主義者にも社会主義者にも共通していた。もとよりこの国の人々によるひどい差別や軍人や官吏による軍国主義を非難する人がいても、朝鮮の併合停止、朝鮮の独立を主張するまでには至らなかった。きわめてごく少数にとどまる。むしろこの思想の克服は、朝鮮人留学生によって行われていたのであるが、正面から受けとめる思想家、活動家はまずいなかったらしい。


 過去に読んだ本では、大正デモクラシーはその限界に注目することがい多かった(まあ、それは1921−33年までの共産党運動で克服された、というような見方によっていたのかもしれない)。とはいえ、ここに書かれた内容をみれば、なるほど限界や愚かさもあったのだが、無視してよい時代ではない。
・この本もそうだけど、民本主義者や社会主義者の限界をレーニン主義の視点で行うと間違える。この時代に成立した共産党レーニン主義の路線で活動していたので、前衛(党員)が指導する大衆運動より政治運動を、運動目標の達成より党員拡大を、左派組織との敵対してヘゲモニー奪取を、などを方針にしていた。だから、大正デモクラシーで多くの組織が縮小、壊滅したあと、共産党はそれらの組織、グループに敵対的になるし、労働組合ストライキ戦術をとって組織の打撃を大きくした。そのような歴史を知るものにとっては、この論文のいくつかは首肯できるまとめではない。
・むしろ今日的なのは、成功しなかった共同戦線のやりかたではないかな。当面の政策目標の達成のために、共同戦線を取り、達成したら組織はいったん解散。そして次の達成目標があるときに、団結する。そういうアメーバ的なやり方みたいな。
・あと重要なのは、人権の侵害に対して厳しく目を見張ること。自由の獲得よりも後回しにされそうなスローガンであり、達成目標であるが、ここが勝手に侵害される状況であると、自由の制限、恣意的な運用がすぐにとられるようになる。そのあたりに鈍感であると、大正デモクラシーの「失敗」は克服しがたいのだな、と。最後の論文にあるように、先鋭な社会意識、政治感覚を持つ人でも、人権侵害には無頓着である例は多い。