odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎撰「新体詩抄」(ネット版) 浄瑠璃や浪曲の文体をまねた英国の戦場詩の翻訳は、帝国日本の大衆文学の源泉。国民はこれをまねした軍歌を大量に作った。

 辻田真佐憲「日本の軍歌 国民的音楽の歴史」(幻冬舎新書)に、「新体詩抄」は軍歌に影響を及ぼしたという指摘があった。そこで、「新体詩抄」を読む。通常であれば、明治文学大観のような選集のひとつにあるようなもの。手軽に読めるものではなかった。でも、今では著作権フリーのテキストとして入手可能。以下のサイトで入手した。

ja.wikisource.org


 初出時から稚拙との評がある。たしかにそのとおりで、近現代詩としては箸にも棒にも掛からぬ一品ではある。でも、別の視点で読むととてもおもしろい。

 上記サイトの説明によると、「新体詩抄」1884年は「外山正一(1848-1900)、矢田部良吉(1851-1899)、井上哲次郎(1855-1944)の共編で翻訳14編、創作5編の新体詩からなる詩集」とのころ。生年をみると三人とも大政奉還のころには成人になっていたものたち。江戸時代の会読会で勉強していたものであるとわかる。彼らの素養は儒教であって、漢文漢詩になれている。細かいところまでは調べないが、おそらくは武士道や国学にも触れていただろう。かわりに和歌には疎いとみた(序では日本の詩歌の例として長歌狂歌などがあげられる程度)。そのような成人たちが初めて英文学に出会う。当時の世界の覇権国である英国の文化を知る。文化的衝撃が強い。散文の小説をいきなり消化するのは大変(他の人たちがリットン卿などの英文学をさかんに翻訳していた)。そこで、まず英国の詩とシェイクスピアを翻訳しようとした。「文学」を作るのが、翻訳からというのは小説といっしょ。
 そうして英語の詩をヨコからタテにする。英詩には形式があるが、日本語にするのは困難。というかできない。でも詩は形式を持っていなければならない。彼らが選んだのは七五調にすること。この文体から俳句や連歌を連想するのは(たぶん)誤り。すでに七五調の語りが確立していた浄瑠璃文楽義太夫浪曲などの口誦文芸を参考にした。「新体詩抄」がでた1884年の前には新しい文体として口誦文芸が本になってたくさん出版されていたという。手元にも三遊亭圓朝の落語筆記本(青空文庫の復刻版))がある。有名な「怪談牡丹灯籠」がでたのは1884年。これらの語りの影響を受けて、七五調で、終わりや途切れのない文体で英詩を翻訳した。時に創作もしてみた。あと

「我邦人ノ從來平常ノ語ヲ用ヒテ詩歌ヲ作ル」(矢田部良吉)

というのも方法のひとつ。この時代からわかりやすい文体を作る運動が官民にあった。「新体詩抄」は官(に近いところ)による言文一致体のサンプルなのだ。

 この三人を外国文学と出会った最初の世代とすると、彼らはすでに成人していて職を持っていた。なので、自分は何者か、何になるのがふさわしいのかというアイデンティティ危機やエゴの確立に苦しむことはなかった。なので、自我の問題を取り上げるような作品に心打たれることはない。苦悩や憧れというロマン主義を元から持っていない。近代詩人が詩を書いた理由とは全く異なる。そのために、自然景観を讃美するような詩は選ばれない。英国詩を読んでも和歌を歌えないからだろう(自作の「春夏秋冬」を除く。これは日本語で脚韻を実現する練習の作。1940年代の「マチネ・ポエティック」に先立つこと半世紀前。自然描写は月並み)。人情を歌う詩もない。とくに、男女の愛、夫婦円満、子どもの無垢の賛美などはまったく現れない。感情に訴えるのは、勉学に励め、刻苦勉励せよ、国家に奉仕せよという道徳を諭すものばかり。シェイクスピアハムレットの翻訳をするのは、最先端の文明国の文化の神髄を紹介するため。和魂洋才の文化をつくるために、英国の優れた所は輸入しなければならない。
 彼らは国家目的に沿うものかどうかで作品を選定する。全部で17作がある。そのうち4歌が戦場を歌ったもの。死地に赴き苛烈な戦闘を行い戦死する。兵士の勇猛さと国家への奉仕、そして非業の死。兵士を称え死を嘆き人びとを兵士のようになることを鼓舞する。そういう詩が並ぶ。
 有名なのは「テニソン氏輕騎隊進擊の詩」。その冒頭。

「一里半なり一里半/並ひて進む一里半/死地に乘り入る六百騎/將は掛れの令下す/士卒たる身の身を以て/譯を糾すは分ならず/答をなすも分ならず/これ命これに從ひて/死ぬるの外はあらざらん/死地に乘り入る六百騎」

 わかりやすい。講談を聞いているみたい。気分が盛り上がる。
 これも有名な「抜刀隊」の最後の詩句。のちに日本に軍楽隊の指導にきたフランス人・ルルーは「抜刀隊」に曲をつけて「抜刀隊行進曲」にした。

「君の為なり國の為/捨つべきものは命なり/假令ひ屍は朽ちぬとも/忠義の為に捨る身の/名は芳しく後の世に/永く傳へて殘るらん/武士と生れた甲斐もなく/義もなき犬と云はるゝな/卑怯者となそしられそ/敵の亡ぶる夫迄は/進めや進め諸共に/玉ちる劔拔き連れて/死ぬる覺悟で進むべし」

www.youtube.com

 どちらも軍歌に出てくる詩句にそっくり。というより、後の人びとは「新体詩抄」の戦場詩や詩をテーマにしたものを参考に七五調の軍歌をつくったのでしょう。誰もが使う平易な語句。七五調のリズム感。勇壮で意気高揚で元気はつらつ。ところどころに壮烈な死の悲壮美と哀悼。滅私と国家への奉公を求める説教。これが戦争熱に浮かされた臣民の心に響いた。帝国臣民は新体詩の形式を好んだ。七五調の歌詞を歌い、七五調の歌詞を書いた。

 通常この「新体詩抄」はできそこないで稚拙で単純な詩とされる。近現代詩は「新体詩抄」を乗り越えるように作られていったと説明される。高村光太郎萩原朔太郎中原中也宮沢賢治ら(よく知らないので有名人だけ)の七五調にとらわれない自由な詩のほうを主流とみなす。七五調でも藤村とか上田敏とかのほうを重視するのだ。
 その見方はいいけど、帝国日本の時期に国民(臣民)に影響を及ぼしたのは「新体詩抄」だった。その文体やテーマは真似された。20世紀になって皇国日本の兵士となって死ねと説く大衆文学ができたが、その始祖は「新体詩抄」にあると俺は見たい。帝国日本の大衆文学の源泉はこれです。

 

 丶山仙士が書いた「社会学の原理に題す」という詩がある。丶山(ちゅざん)仙士は社会学の初代教授・外山正一のこと。一部を引用。

「外面は見ゆるものとても/一に定まれる法はあり/野山に生ふる草木や/地をはふ虫や共に/深き由來と變遷の/あらざる物はなきぞかし/(略)今の體も腦力も/元を質せば四足や/空翔けりゆく鳥類も/其組織より動作まで/都て規律のあるものぞ/又萬物は皆一樣に/一代増に少しづゝ/積みかさなれる結果ぞと/今古無雙の濶眼で/見極はめたるはこれぞこれ/アリストートル、ニウトンに/優すも劣らぬ腦力の/ダルウヰン氏の發明ぞ/これに劣らぬスペンセル/同じ道理を擴張し/化醇の法で進むのハ/まのあたりみる草木や/動物而己にあらずして/凡そありとしあるものは/活物死物夫而己か/有形無形夫〳〵の/區別も更になかりしを/真理極めし其知識/感ずるも尚あまりあり/されば心の働も/思想智識の發達も/言語宗旨の改良も/社會の事も皆都て/同じ理合のものなれば/既にものせる哲學の/原理の論ぞ之に次ぐ」

 よくわからぬ人名は、アリストテレスニュートンダーウィン、(ハーバート)スペンサー。これは一見進化論のことを言っていそう。でもタイトルは「社会学」。なんで? 当時の西洋の社会学は「存在の大いなる連鎖」の理論で書かれていた。外面が異なるものも一定の法(規則)に従うのであるし、草木から虫、鳥類まで「深き由來と變遷」でつながっているのだ。「今の體も腦力も」各代の個体の勤勉と努力によって変遷が積み重なった結果なのだ。とても正確な「存在の大いなる連鎖」のまとめです。この思想の持主としてスペンサーがいるのは当然。でもアリストテレスニュートンもいる、なんで? アリストテレスの運動論は「存在の大いなる連鎖」の核心部分。ニュートンは邦訳があるかどうかはわからないが、この存在の鎖理論の解説書を書いていた。ダーウィンの進化論(1858発表なので、本書はとても早い時期の紹介になる)は「存在の鎖」説を近代化するものとして受け入れられた。ただし進化は無目的・無方向というダーウィン説よりも、個体や種の努力で進化するというラマルク説のほうが当時は主流の考えだった。引用部の進化の説明はラマルク説にあっている。「心の働も/思想智識の發達も/言語宗旨の改良も/社會の事も皆都て/同じ理合のものなれば/既にものせる哲學の/原理の論」とあるのは、「存在の鎖」説で哲学も社会学も生物学も(神学も)全部説明できるから。一つの説を知れば、地上から天空のことまで、人間の心理から死後の世界まで、なにもかも説明できてしまうのだ。
 序には「今世ニ行ハルヽ光線波動ノ説萬物化醇ノ論」(矢田部良吉)の言葉も見える。これも同じく「存在の鎖」説。この後日本の科学は「存在の鎖」説を受け入れることはなかった。哲学や社会学も多少の影響は残っても、この説をそのまま受け入れることはなかった。和魂洋才の時代にいっしゅん現れただけだろう。
(と中庸を取ろうとしたけど、教育勅語や国体思想に「存在の鎖」説の影響を見たいという誘惑もある。岡崎勝世「聖書vs世界史」講談社現代新書によると、文部省の国定教科書は西洋の存在の鎖説に基づく普遍史を採用した記述があるというのだし。世界の中心が創造主なのか天皇なのかで決定的な違いがあるけど、その他の説明は似ているのだよなあ。地上から天空のことまで、人間の心理から死後の世界まで、なにもかも説明できてしまうのは国体思想も同じだ。)

 同じ詩の中に次の語句がある。

「忽ち國に社會黨/尚ほ恐しき虚無黨の/起るは鏡に見る如し」

 この時代にマルクスらの第一インターナショナルの情報が入っていたとは思いにくい。1848年革命や1870年パリコミューンなどのことを指しているのだろう。国家の運営に関与している人からすると、これらの運動は国家破壊者。のちの「反共」に至る思想は明治10年代にはすでにあった(自由民権運動弾圧の口実に「社会党」「虚無党」が使われていたのだろう。)

 「新体詩抄」がでたのは教育勅語がでる前だったが、教育勅語にまとめられる帝国日本の国体思想はすでにかたちになっていたのだね。「三十一文字や川柳等の如き鳴方にて能く鳴り盡すことの出來る思想は線香烟花か流星位の思に過ぎざるべし」と序で外山正一はいう。彼のいう思想は国体思想の萌芽に他ならない。のちの軍歌の歌詞のもとになったのもそのせい。この国体思想は多くの政治家や国家官僚に共有されていた。
 この詩集になかったのは、「日本スゴイ」という自己賛美。それを主張するための思想はまだなかった。そう言える実績はなかった。遅れている日本は和魂洋才で洋学を学べという時代だった。なので序も自作詩も熱狂や法悦にはほど遠い。客観的でクール。「日本スゴイ」がでてくるのは、教育勅語ができて、軍備がそれなりに整い、西洋諸国との戦争が近いという危機と高揚の気分が生まれた1900年以降になる。
 日本文学史の系譜で見ると、つまらない退屈な書だけど、日本思想の書としてみるととても興味深くなる。そういう方向で読んだ人はいるのかな?

 

 井上哲次郎は、明治時代に日本で排外主義を扇動した一人。

明治時代にも起きた「日本人ファースト」 その根底にあるもの
「日本人ファースト」のような主張は、明治の中頃にもあった。哲学者で東京大学教授、井上哲次郎はその最右翼だった。日本のなかに外国人が交ざって暮らす、いわゆる「内地雑居」を許してはならないと強く訴えた。そんなことをすれば日本が日本でなくなるという。/いわく「日本固有の状態は全く一変して万国人の居住地のごとく種々様々なる人種入り込みて混同する」。いわく「自国とも他国とも判すべからざる一種異様なる国土」になってしまう――。外国人がもっぱら治外法権居留地に住む時代にあって、想像力を駆使して筆を振るった。/主張の根底にあったのは劣等意識だ。「日本人は知識においても金力においても体格においても、その他百般の事においても、多くは西洋人に劣る」。彼らとの競争になれば、ことごとく負けてしまうのだと。

www.asahi.com


 今のネトウヨや極右政党がいいそうなことが、すでに100年以上前から出そろっていた。
 このような「日本人ファースト」の扇動は、まず中国人に向かい、日清戦争の勝利によってヘイトクライムを起こすようになった。