odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

ルネ・デカルト「省察 (懐疑主義の系譜)」(KINDLE版)-3 本人には自覚がないパラダイム転換。後世の若い学者は振りかえって「省察」が革命であったのだという

2026/01/14 ルネ・デカルト「省察 (懐疑主義の系譜)」(KINDLE版)-1 ヨーロッパ諸学の危機と方法的懐疑。デカルトは「存在の大いなる連鎖」を検討する。 1641年
2026/01/13 ルネ・デカルト「省察 (懐疑主義の系譜)」(KINDLE版)-2 神は完全なのに、宇宙は不完全で無方向な運動をしている。その矛盾をデカルトはどないかせんとあかんという。でないと人間はゴミでクズでしかない。 1641年の続き

 自然について。デカルトが生きていた時代のホットトピックは天文現象と運動論。でもデカルトは一切沈黙する。彼の懐疑は神の存在証明に至ったのだが、それなら神の鎮座する天空について、そこに至る天の階層について一家言あってもおかしくない。でも語らない。それはひとえに、ガリレオ裁判の影響だ。根無し草で後ろ盾のない放浪者は、教会の追跡をかわさなければならない。何も語らないことにする。
 代わりに口にするのは、純粋数学と自然。純粋数学イデアの説明の比喩として登場する。当時の数学は、ユークリッド幾何学と計算術。幾何学と分数で惑星軌道を計算していた。3次方程式の解と対数は発見されていた。代数学の初歩はできていた。いまでいうと中学生の数学のレベル。宇宙の解明には不十分であるように思われるが、当時の知的エリートを甘く見てはいけない。計算は遅くとも、このツールで宇宙の謎に迫っているのだ(コペルニクス「天球回転論」やトーマス・クーン「コペルニクス革命」などを参照)。それがあるからこそ、純粋数学を誤りのない確かなことと断定できる。
 天文学や力学の代わりに話題にするのが自然学。デカルトはすでに確かであると言えるのは、考える〈この私〉の存在と神の存在についてだけ。その中間にある自然は不確かで不完全なものであると懐疑する。そのために「存在の大いなる連鎖」によると宇宙の構造と連携した自然の構造はあいまいで不確かなものとして退けられる。神との関係によって良し悪しがはっきりしていた自然の事物はない。あるのかどうかさえわからない。でも、〈この私〉は自分を構成する肉体があることを否定できない。たとえ肉体は魂とは別の存在であるとしても(肉体がなくても〈この私〉は存在できるのだ)。そこで、自然の中で確かなものを見出そうとする。それは生き物が運動することであった。とくに肉体の中で起きている運動が大事。消化排泄とか心臓の拍動とか。これは〈この私〉の命令で起こるものではないし、〈この私〉が意識的に制御できることではない。魂や精神が制御できない運動があることが自然の中で大事。これは否定できない。
 とすると、肉体(およびそれを構成する元となった自然)はルーティンを繰り返す機械なのである。何かの意図によって設計された機械が命令なしに運動を継続するように、自然も機械として運動しているのである。
 ということを「世界論」で書きたかったようだ。この生物機械論は新しいように見える。でも俺はデカルトがそのようにいうまえに、宇宙の天空がゼンマイ仕掛けの機械のように動いていると天文学者らが主張していたことを思い出す。自然や生き物が機械であるまえに、宇宙が機械仕掛けなのであった。コペルニクスのころには歯車を使って惑星と月と太陽が地球の周りを回転する模型を作っていた。創造主は宇宙を作ったが、そのあとの運動は神が介入しないでも正確に行えるようにしたのだ。それで宇宙を機械のようにした。デカルトの生物機械論は宇宙の機械モデルを地上に降ろしてできたと、俺は妄想する。
 そうすると、この世(のうち地上にあるもの)は価値の優劣をもたない。あくまで機能で見る。すると教会と城と小屋と納屋の違いはない。ヒトやモノを収納する大型の入れ物としてはどれも等価なのだ。それは天空の惑星が等価であることと同じ。天体観測では惑星ごとの象徴的な意味は無視できる。暦を作るための観測対象なので優劣をもたない。こうしてこの世の地上は天空と同じような均質で平坦な無限空間になる。「存在の大いなる連鎖」が持っていた価値と意味の違いがある有限の閉鎖空間を別のものにする。
(ということを認めれば、人間と神の関係も等価になるよね。デカルトが「私は神である」と主張できるゆえん。でもって、無限宇宙論を主張したジョルダノ・ブルーノは火炙りに処された。デカルトは日和って曖昧に書く。)

 デカルトの自然観は「存在の大いなる連鎖」を逸脱するようでもあるが、依拠しているところもある。たとえば次のことば。

私の中にあるこれらの観念のうち、自分自身を表す観念を除いて――これについては何の問題もない――他には次のようなものがある。神を表す観念、物質的で無生物の事物を表す観念、天使を表す観念、動物を表す観念、そして最後に、私に似た他の人間たちを表す観念である。 (p.44)

 引用部分で、デカルトはこの世をいくつかのカテゴリーに分けている。それは神-天使-人間-動物-無生物(物質)。デカルトはこのカテゴリ―の中の優劣をつけていない。でも他のところを参照するなどすると、このようなヒエラルキーを持っている。このヒエラルキーはすなわち「存在の大いなる連鎖」そのもの。すでに人間と動物は理性や意思を持つかどうかで区別していた。上に書いたことは動物と無生物を分ける基準を示したもの。また、デカルトは空間には〈何か〉が充満していると考えていた。パスカルが発見した「真空」は拒否し続けた。ここも「存在の大いなる連鎖」を継承している。

 

 こうやってデカルト省察」を読むと、デカルトが新しいのか古いのかわからなくなる。ヨーロッパ諸学の危機の時代にあたって、「存在の大いなる連鎖」を批判し乗り越える提案をしているようだ。しかし「存在の大いなる連鎖」を補完・補強する議論を追加して延命させているようにも見える。どちらか片方の意図だけであると断定するのはよくない。新しいパラダイムを自覚なしにデカルトは提起している。でも見かけは古い「存在の大いなる連鎖」を主張する。
 科学のパラダイムを転換するときの中心はデカルト省察」のように書かれる。コペルニクスの「天空回転論」、ニュートン「プリンキピア」のように。そしてパラダイム転換を達成したあとに、後世の若い学者は振りかえってこれらの書物が革命であったのだというのだ。

odd-hatch.hatenablog.jp

(念のため。ここに書いたことは、デカルトや「省察」の解説にはまず書かれない。コピペして叱られても、わしゃ知らんよ。)

 

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