odd_hatchの読書ノート

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ドイツ民衆本の世界6「トリストラントとイザルデ」(国書刊行会) 中世の文学としては、聖杯伝説と並ぶ最高傑作。ワーグナーの楽劇とは細部が異なる。

 「偶然の悪戯から媚薬を飲んでしまった若きトリストラントとイザルデは、道ならぬ恋に陥り、あらゆる制約を超越して、日夜愛の饗宴に酔いしれる。ケルト起源の伝承がフランスを経てドイツ語に移され、ワーグナーのオペラでも知られるこの物語は、中世キリスト教に言う神秘的合一体験を描きながら、禁欲的なドグマや教会から離れ、すぐれて人間的な「うつし世の愛」を高らかに謳い上げる。多くの人々に読まれた流布本系からの初の翻訳(裏表紙のサマリ)」

 もとは10世紀のケルト伝説に端を発する。単純な駆け落ち譚であったものに宮廷の習俗を取り入れた韻文が各所でかかれ、それがさらに散文に変換されていった。時間の経過とともに、原型となった文書は消失し、様々なバリエーションが世に残る。19世紀フランスのペディエがそれらの文書を編集して原型にまとめた。岩波文庫で出版されているのがそれ。ここでは、15世紀にドイツの無名作家が散文に直して流布したものを翻訳した。(ついでにいうと、ワーグナーはそれらヴァリアントをつき合わせて(?)、独自のテキストを作り、楽劇にまとめた。ペディエのものとも、このドイツ民衆本版のもとも比べると、ストーリーを相当に端折っている)。
 なるほど、このドイツ民衆本の選集の中ではもっとも重厚で複雑な文学だ。人物の造詣、心理描写、波乱万丈のストーリー、それでいて構成がしっかりしている。中世の文学としては、聖杯伝説と並ぶ最高傑作であると、個人的に断言しておこう。
 ワーグナーのリブレットとの差異に注目して概要をまとめよう。ワーグナーは、なかなかうまい編集能力を示していた。
・マルク王はクルナヴァル(コーンウォール)の王。その甥がトリストラント。イザルデはアイルランドの王妃。
・トリストラントは、クルナヴァルを征服しようとしたモルオールトを決闘で殺す。モルオールトはイザルデの叔父。イザルデはモルオールトの復讐を誓う。トリストラントはモルオールトの剣に仕込まれた毒で瀕死の重傷。小船にのって漂流し、アイルランドに到着。イザルデは魔法の薬でトリストラントを救う。トリストラント、飢饉にあったアイルランドを救い、クルネヴァルにもどる。【この時点でイザルデは自分の救った男が仇であることを知らない。】
・マルケ王は妻を娶ろうとしない。臣の忠言を聞き、あるとき風に運ばれた金髪の持ち主と結婚すると誓う。そこで、トリストラントは金髪の持ち主を探す旅に出る。アイルランドに渡り、民衆に害毒を及ぼす竜を退治。重傷を負ったトリストラントをイザルデが介抱する。イザルデ、トリストラントの剣のかけたところがモルオールトの兜に残る破片と一致することを知る。しかし、トリストラントの弁明を聞き入れて許す(そのとき、イザルデは奸臣に嫁ぐことになりそうでもあった)。アイルランド王は竜を退治したものにイザルデをめとわせる誓いを立てていたので、イザルデをトリストラントの妻に迎えようとする。しかし、トリストラントは金髪の持ち主イザルデをマルケ王の妻とすることを主張。アイルランド王およびイザルデはそれに従う。
・クルナヴェルに向かう船上、乾きに耐えかねたトリストラントが水を所望したところ、イザルデの小姓は誤って愛の媚薬を飲ませる。同時にイザルデも媚薬を飲み、二人は恋に落ちる【愛の媚薬はイザルデの母が作ったもの。マルケ王を愛するようにとブランゲルに持たせた】。マルケ王との初夜で、ブランゲルはイザルデの身代わりとなる。【なお、マルケ王に嫁いだあとに、イザルデはブランゲルを殺す策略を図る。しかしブランゲルの純情に共感した騎士によってブランゲルは殺されず、イザルデと後に和解している。】
・マルケ王とイザルデの婚礼後、二人は恋に焦がれて逢瀬を重ねる。度重なる逢瀬を見つかり、トリストラントとイザルデは死刑を命じられる。トリストラントは途中で逃れ、クルヴェナルとブランゲルの助けによってイザルデも駆け落ち。【二人は何度かマルケ王に不倫の現場を押さえられているが、機略を用いて逃れている。駆け落ちにあたり、メロートと決闘していないし、瀕死の重傷も負っていない。】
・それから4年、媚薬の影響下で、トリストラントとイザルデは森の奥で極貧の生活。媚薬の効き目が切れた【この版では媚薬の期限は4年とされているが、別の版では期限が定められていない。】が、二人の愛は途切れない。しかし、森の自給自足の生活に耐え切れず、イザルデをマルケ王の下に返し、トリストラントは旅に出る。【一度、マルケ王が二人が同衾しているところに乗り込む。しかし、二人の間に抜き身の剣がおいてあることを見て、そのまま退去する。このあたりの貞節観念はわかりにくい。】
・トリストラントは、ブリタニアに寄り、アルトゥス(アーサー)王の配下となる。家臣ブルボン(ガヴァイン)と親交を結ぶ。ブルボンの詭計によって、イザルデと一度会うことができる。【おお、トリスタンとパルジファルは同時代人だったのだ!ガヴァインはアーサー王宮廷の第一の騎士。聖杯を発見した。】
・トリストラントはアルトゥス王の元を離れ、カルエー王の元に行く。部下の叛乱にあり、篭城するカルエー王を救う。その功により、白い手のイザルデと結婚。しかし、トリストラントは白い手のイザルデの肌を触れない。白い手のイザルデの兄カイニスの協力でトリストラントは再び金髪のイザルデと会うことができる。ただし、逢瀬はただの一夜。夜明けとともに二人は分かれなければならない。マルケ王の奸臣アウクトラートや侍従は二人を捕らえようとするが成功したためしがない。警備が厳重になるにつれて、逢瀬は難しくなり、トリストラントは道化に変装することもいとわない。
・トリストラントの故郷イヨーノイスで先王が死去する。トリストラントは異郷にありながら王位を継承し、故郷に戻る。反対者を平定し、1年の治世ののち、王位をクルヴェナルに譲り、カルエーに戻る。このころブランゲルが死去(死因不明)。
・カイニスは隣国の王妃に恋焦がれる。トリストラントの介添えにより、思いを遂げる。しかし、王妃に疑いを持った王ナムペセニスによって彼らの愛は発覚し、二人が狩の最中に待ち伏せする。カイニス死亡。トリストラントはナムペセニスの毒をもった槍で瀕死の重傷を負う。【ペディエ編では、重傷を負わせたのはマルケ王との由。メロートなる人物はいない。】
・その知らせはクルネヴァルに届き、イザルデは船でトリストラントのもとに行く。トリストラントを見舞う白い手のイザルデは、船の帆が黒と伝える。それを聞いてトリストラントはみまかう(金髪のイザルデは間に合わなかった)。トリストラントの亡骸をみた金髪のイザルデも死去。白い手のイザルデはおのれの浅はかさを嘆いて生きる。
・マルケ王はようやく二人の愛が媚薬によるのを知り、激しく後悔する。二人を同じ棺に入れて埋葬。トリストラントの墓地には葡萄を植え、イザルデの墓地には薔薇を植える。二つの植物はからまりながら繁茂する。
 媚薬を飲んでから悲劇にいたるまで15年か。媚薬の効き目は4年。とすると、媚薬の効果の切れた後、「真実の」「魂の」愛に目覚めた二人の遠距離恋愛は10年も続いたことになるのか。騎士のイデアルな愛ではなく、キリスト教の観念の愛でもない、身体的な愛は当時のモラルを超えているのだろうな。そのあたりが後の時代になっても愛好された理由であるのだろう。個人的にもこの話を読みながら、個人的な体験を思い出して身にしみた。

 読みながらワーグナーの楽劇を聞いていた。C.クライバー指揮バイロイト管の1974年版。指揮は扇情的、カタリーナ・リゲンツァの硬質な声はよかった。トリスタン役のヘルゲ・ブリリオートは牧童か従者にふさわしい軽い声の持ち主。トリスタンの弱さがあって、イゾルデの悲劇が印象的な公演記録だった。
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<参考エントリー>
フランス古典「トリスタン・イズー物語」(岩波文庫)
ブルフィンチ「中世騎士物語」(岩波文庫)