odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

P・D・ジェイムズ「黒い塔」(ハヤカワポケットミステリ) 不治の病が集まる療養所では余所者の警部に誰も心を開かない。

 「ドーセットにある障害者用の療養所で教師をしていたバドリイ神父が急死した。長年の知人であるダルグリッシュ警視が、折り入って相談があるという手紙を受け取った直後のことだった。はたして神父の相談ごととは何だったのか。休暇を利用して調べをはじめたダルグリッシュは、療養所内で患者の事故死や自殺が相次いでいることを知るが…現代ミステリ界の頂点に立つ著者の英国推理作家協会賞シルヴァー・ダガー賞受賞作。」
http://www.amazon.co.jp/dp/415076607X


 白血病と誤診されたダルグリッシュ警視は病気休暇を利用して療養所を訪れる。これは民間のホスピスで、不治の病(ただし予後がみじかいというわけではない)の患者数名が共同生活をしている。経営者は、かつて不治の病を得ていたがルルドの奇跡によって全快し、そのとき神様に祈ったことの実現のために、この療養所を経営している。しかし、経営は不安定で、もうすぐ破たんすることになり、別の信託に売却することにしていた。ここには、問題を起こした医師や看護婦が格安の給与で雇われていた(ここ以外には雇用するところはなく、療養所も人目のつかない辺鄙な場所に建てられている)。この療養所の近くには中世の修道院を模した石造りの建物があり、黒い塔と呼ばれる高い塔が目印になっていた。
 さて、ここには10名前後の患者が収容されている。彼らはかつて元気であった者もいれば、生まれたときからの疾患をもつものもいる。長い療養生活のためか、彼らの心理は不安と期待、快活と猜疑、感謝と怒り、建て前とうそ、こういう錯綜した心理を持っている。本書の前半分は、療養所の関係者をひとりひとり紹介し、これらの感情や心理と、彼らの生活を描くことに集中する。ここは充実した筆致である一方、長い。しかもほとんどアクションのない状態なので、読者もきちんと読むことを要請される(どこかで読んだのだが、「黒い塔」の訳は小泉喜美子で、彼女の訳は大胆なまとめもあるとのこと。原文通りに翻訳したら、もっと長いという話だった)。
 後半にいたるとすこしずつ事件が起きてくる。毒舌家の患者が崖から転落して死亡(彼は車椅子で移動する)、療養所の経営者が黒い塔で謎の人物に襲われぼやでやけどを負う。療養所の仕事を手伝っていた女性患者が縊死し、また医師の妻も自宅で縊死する。これらはすべて事故ないし自殺と考えられる。ダルグリッシュはその決定に異論をはさめないものの、最初の神父の死を老衰死と考えることができない。さらに、誤診とはいえ自分の短期的に訪れる死という考えにとらわれた警視は捜査がおっくうでたまらない。様相が変わったのは、バドリィ神父が警視を呼んだ理由を示す手紙が見つかったことから。バドリィ神父はたんに法律知識をもつ人を呼びたかっただけ。でも、それを誤解した人物がいたのではないか、というところから解決にいたる。
 葉は森の中に隠せ、死体は死体の中に隠せ、というチェスタトンの有名な箴言をもじれば、動機は雑多な人物の思惑の中に隠せ、というのが本書のモットー。療養所の閉鎖された人間関係の中で、この連続殺人を犯す理由がある。それは確かに書かれていたのだが、あまりに多くの奇矯な人物がうろうろしているために、みごとに忘れてしまいました。この動機はとてもリアリティのあるものだった。
・療養所の不治の病の患者がもっている奇妙な精神ということで、大江健三郎の「他人の足」を思い出した。
・現職警察官のダルグリッシュとたとえばリュウ・アーチャーのような私立探偵の違いはどこにあるのかな。警視もここでは部外者、よそ者であって、療養所の多くは彼の質問にまっとうにこたえない。そのことにときどき警視はいらだつ。たぶんリュウ・アーチャーのような私立探偵みたいに見下せないから(そのために本音をもらしてしまう)。