odd_hatchの読書ノート

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小宮正安「ベートーヴェン《第九》の世界」(岩波新書) 疾風怒濤期の体制批判と転覆から旧体制復帰期の平和の希求と始原への回帰へ。「歓喜の歌」のメッセージは現在に通用するか?

 ベートーヴェンの作品の中では破格の難解さをもっていて、常識外れの長さで聞き通すのは苦行であり、モーツァルトチマローザロッシーニなどの影響を受けた折衷的なところがあり、合唱といわれながら登場するのは最後の10分だけで、しかし聞き終えると強い高揚感を残す。初演からしばらくは敬遠される大曲であったが、19世紀後半には支持者の強い運動によってヨーロッパ中で聞かれるようになった。20世紀にはナショナリズムの一体感と平和希求の祭りの高揚感をもたらすものとして、さまざまな運動のシンボルにされた。西洋古典音楽の長い歴史のなかで、社会や思潮にまで影響を与えた作品はベートーヴェン交響曲第9番、これ以外にはない。



 「第9」の解説はいろいろ読んできた。本書が当面の間の決定版だと思えるのは、シラーの詩「歓喜の歌」が書かれて(1785年)からナチの党大会(1942年)やホロコースト供養での演奏会(2001年)までの「第9」の歴史を鳥瞰しているところ。主要登場人物は、シラーとベートーヴェンワーグナー。ことにシラーの記述が貴重。同時期のゲーテとカントは語られても、シラーはほとんど知られていない。18世紀後半のドイツ思想の概要をようやく知れた。以下、本書のトピックをメモ。

・18世紀後半のドイツ思想の潮流は「シュトルム・ウント・ドランク(Sturm und Drang)」「疾風怒濤」。旧体制と特権階級を打倒して自由を実現しようとする社会変革志向を持っていた。政治運動も芸術運動もあった。シラーはその重要な一人で、激烈なアジを繰り返したために、警察に追われる身となり国外逃亡までした。重要なのは感情の爆発と破滅まっしぐらを肯定すること。ときには企図の途中で英雄的に死ぬこと辞さない。むしろそのような死を迎えることを歓迎する。なのでプロメテウスが当時の運動のシンボルであり、夭逝したバイロンが讃美された。

・1785年に出たシラーの「歓喜に寄す」はその代表的作品。旧体制の転覆から新しい世界の創出を讃美するものだった。
(笠原潔「西洋音楽の諸問題」(放送大学教材) で知った「英雄」イメージの由来がよくわかった。)

・1789年フランス革命。革命の思想「自由平等友愛」は疾風怒濤期の若者、インテリらが共有した。ナポレオンが革命精神を広げることに期待した。しかし革命と共和主義の拡大を名目にした他国への戦争は幻滅をもたらした(彼が皇帝になったこともあるが、それよりフランス軍の乱暴狼藉とそれによる荒廃が大きな理由)。

・革命期のフランスで流行ったのが「救出劇」と器楽演奏。それまでは神の言葉を告げる人間の声が芸術の最高峰とされたが、宗教感情が希薄になるなどして器楽だけの演奏に価値を認めるようになる。また音楽の享受者に市民(資産があり参政権を持つ都市の男性)になると、交響曲を新しい芸術の核心とみなすようになった。テキストがないので市民が自由に解釈でき、新しい・うるさい・わかりやすい音楽なので高揚感と感動を手に入れることができた。作曲家も市民向けのメッセージを込めた交響曲をつくるようになる。その人気者がベートーヴェン
片山杜秀「ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる」(文春新書) 

・1813年、ナポレオンの敗退とウィーン会議でヨーロッパは変わる。革命の標語「自由平等友愛」に共感しても戦争にはこりごり。自由をあきらめて平和を受け入れた。旧体制は自由思想を弾圧する。革命機運は消え、「ものいえぬ時代」になる。

ベートーヴェンはロンドンから新作交響曲の依頼を受けた。かねてからの腹案にあったシラー「歓喜に寄す」の合唱をいれる交響曲を構想した。そのさい、シラーの歌詞のままでは検閲にとおりそうにない。そこでベートーヴェンは歌詞を取捨選択し、自作の詞を加えた。シラーの原詩にある体制批判や転覆メッセージをのぞき、平和(愛や謙遜を通じた友愛の構築)を希求するものに変えた。
なおシラーやベートーヴェンの言葉は現代の意味とは異なるものがある。
歓喜: 普通の人が偉人や英雄になれるような存在であること(を自覚すること)。「エリジウム」は死せる英雄が赴く楽園。そこの娘が歓喜ということは、みなもこのような英雄になれというメッセージ。
快楽: 特権階級がむさぼる肉欲や享楽、放埓。否定的な意味を持つ。旧来の価値観ではよいとされた快楽を捨てて、楽園(エデンの園)追放以前の状態に戻れ、かつての至高の文化と文明(古代ギリシャとローマ)を回復しよう、始原に回帰せよというメッセージ。
内村鑑三ヨブ記講義」を読むと、シラーより前では「歓喜」は神の顕現を意味していた。神の恩寵に授かることが歓喜。でも啓蒙主義フランス革命は神なき社会と理想としたので、意味を変えたのだ。その際のポイントは「皆が兄弟となる」であって、個人が英雄になるのではなく、集団活動によって皆が英雄的存在になろうというメッセージが込められている。歌劇「フィデリオ」フィナーレが神も英雄もいないが皆が英雄的存在になった状態。)

ウィーン会議以降、旧体制に復されたが、ドイツでは統一と革命の学生運動が起きていた。ドイツ統一は多くの人が共感をもっていた。
樺山紘一「《英雄》の世紀 ベートーヴェンと近代の創成者たち」(講談社学術文庫

ベートーヴェンも第9で統一を志向した。音楽でも分裂やカオスを統一する形式を備えるようにした。たとえばソナタ(それ以外にも統一感を持たせる工夫はたくさん仕掛けている)。
「最後には受動的行為をも受け入れ、自らの能動的行為と一体化することで、人間存在が見失った始原の世界に到達しうる。(略)「歓喜に寄す」の改訂作業を通じて到達した結論にほかならない」

「第九」の第一楽章が宇宙のビッグバンにたとえられるような、茫洋たる響きの中に始まり、第四楽章における「歓喜に寄す」の大合唱で終わることはよく理解できる。つまり「第九」は、始原に始まり始原に再び立ち返ろうとする志向を軸に、その間に溜まり溜まった旧弊を乗り越えて理想の新世界を創り上げてゆく、という壮大なストーリーに基づいた作品なのである。(P130)」

・1824年初演。巷間伝えられている初演の様子はシンドラーなどの創作が入っている。本書で確認しよう。劇場で初演されたが、舞台にはオーケストラとソリストがいて、舞台下のオケピットに合唱がいた。なので複数の指揮者がいた。のだって!
(かげはら史帆「ベートーヴェン捏造」(柏書房)を参照。)

・初演は成功しても、演奏困難で経費がかかる曲はなかなか上演されない。支持者が啓蒙していって次第に上演回数が増える。ことにワーグナーが熱心。バイロイトでも自作以外で上演を許可したのは第9だけ。

・しかしワーグナーの第9賞讃は危険ではないか。ワーグナーは辺鄙なバイロイトに劇場を作り、そこに行き長時間沈黙して視聴することを観客に強いた。バイロイト詣では巡礼であり修行であった。そこで上演される自作と第9ではワーグナー自身が祝祭の司祭であるようにプロデュースした。ほかにもナチスが第9を宣伝活動に使った。こうなると第9が平和の希求や万人平等の理念を持つものではなく、選抜された国民と市民が参加する音楽芸術讃美のカルト運動になってしまう。ドイツナショナリズムの中心に据えられた。以後、ヨーロッパではナショナリズムの統合と解放の両方を揺れ動くことになる。

・日本ではシラーの歌詞が知られていないし、西洋の革命精神も希薄。大正教養主義では難解さを克服するストイシズムで受容。戦後はシラーやベートーヴェンの意図を離れて、平和の希求だけをメッセージとして、高揚感や疑似宗教体験をする機会として使われている。年末の風情の一つに矮小化。

・シラーでもベートーヴェンでも、歌詞のメッセージでは参加をもとめているが、同時に理念に共感しないものを排除することを認めている。

 

 シラーとベートーヴェンのテキストにあるメッセージを理解するのは、21世紀には困難。なので、このような解説はありがたい。CDのライナーノーツに書いてある程度の短文では上のサマリーのことは書ききれない。今後は本書を参考にして書き直すように。
 それでもなお彼らのメッセージを今日にもってくるのはむずかしい。平等と排除のトレードオフが常に付きまとっているから。闘争と平和も同時に両立することはむずかしい。21世紀の現実の社会ではシラーやベートーヴェンが主張することを実行するのはとても危険なのだ。それでもなお、第9の音楽には魅了されるとき(手元のCDをいくつも聞き返して、久々に感動と高揚を覚えた)、どういうメッセージを見出せばいいのか。

2017/04/4 小宮正安「ヨハン・シュトラウス」(中公新書) 2000年
2023/03/18 小宮正安「モーツァルトを『造った』男」(講談社現代新書) 2011年

 

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