odd_hatchの読書ノート

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ルートヴィッヒ・ベートーヴェン「音楽ノート」(岩波文庫)-2 18~19世紀の器楽は性格を描写し詩的プログラムをもつように作曲された。

 ベートーヴェン交響曲を分析する本をいくつか読んで面白かったので、本人のノートを再読する。前回の感想はこちら。

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 前回の感想を覆すような読み方にはならなかった。より強くいいたいのは、ベートーヴェン本人のテキストを読むと、教養主義の影響下にあるベートーヴェン像は成り立たないなあということ。克己と勤勉で苦悩を乗り越えて、人類愛や市民の政治参加を歌い上げ人というのはかなりの虚像。この人は20代後半から亡くなるまで、病気と体調不良に悩まされ、使用人への愚痴をいいつのり(当時の中産階級は使用人に家事を任せるのが普通)、甥カールには過干渉であり、恋愛を断念しながら愛を求める。不安定な生活基盤で不安をもち、偏狭な性格は人付き合いがうまくいかず、ウィーン会議以降のロッシーニなどのイタリア音楽の流行で自分が忘れられていくことに戦々恐々としていた。甥カールとうまくいかないことをみても、創作作品の人類愛の理念は実生活では実現できなかったことがわかる。理念通りに生活するような人はいないのに、その人が理念や理想を実行していたとみるのは評者の押し付けなのだ。ロマン・ロランや諸井三郎のような評伝をそのまま鵜呑みにしてはならない。自分がCDや雑誌をよく買っていた2000年までのベートーヴェン解説はこの二人のような教養主義によるものだったが、今はどうなっているかしら。
 メモ
ベートーヴェンがよく読んでいたのは、カント、シラー、シェイクスピアギリシャ古典。このリストのうちカントを自分はこれまで無視していたが、第9を見ると、シラーの詩からカント「永遠平和のために」が見える。彼の時代は啓蒙主義で、普遍主義であった。そうすると人類愛を普遍化した先の社会をカントの構想に重ねることができる(という片山杜秀の指摘は刺激的)。

・そのかたわら、スコットランドの民謡に関心をもった。これはロンドンの出版社から依頼された編曲の仕事に関する。また本書でも「戦争交響曲ウェリントンの勝利”」を駄作としている。これも依頼仕事であり、当時最大のスペクタクルイベントだった野外演奏会の出し物でもあった。ナポレオン戦争勝利をバーチャルで体験する行為でもあり、ナショナリズム高揚の目的もあった。ベートーヴェンは依頼者の意図を組み、ヒットするように工夫した。これらの仕事もベートーヴェンの内面を図るものとして、もっと評価するべき。

ベートーヴェンは「苦悩を経て歓喜に至れ」というモチーフで語られる。忍従や苦悩は彼のノートに現れる言葉。ベートーヴェンが使うくらいに人口に膾炙していた観念なのだ。加えて忍従や苦悩は宗教理念で道徳観念であるともみるべき。これまではベートーヴェンの創意として読んできたが、彼の時代思潮としてみるべきではないかと思った。

・「われわれの政界の歴史は5816年(P50)」「パゴダは9000年前のもの(P58)」という記述がある。この数字は聖書に基づく世界史(普遍史)から出て来たもの。岡崎勝世「聖書vs世界史」(講談社現代新書)によると普遍史は啓蒙時代で終わったとされるが、ベートーヴェンが参照するような通俗本では普遍史が「常識」であったのだろう。彼の半世紀後、19世紀半ばに活躍したランケになると、普遍史は終わっている。
岡崎勝世「聖書vs世界史」(講談社現代新書

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 さて、今回の再読で気になったのは、性格交響曲(sinfonia caracteristica)ということば。田園交響曲のノートで出てきたことば。性格交響曲とはなにか。
 ググってみたら次の論文を見つけた。
ジークハルト・ブランデンブルク
ベートーヴェンの《第九》は “シンフォニア・カラクテリスティカ”(性格的交響曲)か(1999)

http://www.ri.kunitachi.ac.jp/lvb/rep/bran99.pdf


 著者が日本の大学で講演した時の記録で、タイトルに対し「Ja」と言っているが、十分な説明をしているわけではない。その点を留意したうえで、気になることをメモ。
・1990年代からベートーヴェンの第9の構造分析研究が盛んになった(つまり上掲の教養主義解釈は時代遅れ、ってことなのだろう)。第9は初演のときから、聴衆にも専門家にもとらえようがなく、さまざまな解釈が行われてきたのだそう。主観的な解釈だったが、最近の傾向は作曲家のテキストや生涯のできごとと突き合わせた実証主義の説明になっているみたい。

・18世紀は器楽が盛んに作られたのだが、芸術としては認められていなかった。音楽と詩を融合したオペラが芸術の最高形式とされていた。
(でヨーゼフ2世などがドイツ語オペラ制作を支援したが、ろくな作品が生まれなかった。ワーグナーより前で今に残るのはモーツァルト後宮からの誘拐」「魔笛」とベートーヴェンフィデリオ」とウェーバー「魔弾の射手」くらいというていたらく。この事態を前に、シューマンやハンスリックらが純粋器楽優位を主張しだし、ワーグナーの成功以後音楽学の主流になった。といえそう。
2023/03/24 石井宏「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」(新潮社)-1 2004年
2023/03/23 石井宏「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」(新潮社)-2 2004年

・性格交響曲(sinfonia caracteristica)はベートーヴェンの造語のようだが、器楽は性格(情念とか感情)を表徴するもので、気質(多血質とか憂鬱質などの4つの類型)を表現するというのは18世紀末では一般的な考えだった。

ベートーヴェンはしばしば作品に性格描写と詩的なプログラムを持たせていた。有名なのは「田園」。ほかに作品18-1の弦楽四重奏曲第1番(これにはカール・フィリップ・エマニエル・バッハの影響が認められる)。

・第9でもベートーヴェンが詩的なプログラムで創作した痕跡が認められる。作曲が進むにつれて、その構想はなくなっていった模様(でも第3楽章はそれまでの主人公の死であるという構想があったという指摘は魅力的。そうであるとすると、終楽章の冒頭で前の3つの楽章が否定され、影の薄かった第2主題が「歓喜の歌」に復活するという見方が俄然説得力を持つ)。

・論文の著者ブランデンブルクは第9は性格交響曲(sinfonia caracteristica)であると主張する。ではどのような性格を描写したのか、詩的プログラムであったかは不明。
(その一例は片山杜秀ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる」「革命と戦争のクラシック音楽史」なのだろう。もう少し長生きしたらアーノンクールも論文と実演を残したかもしれない。)

 俺が妄想するには性格交響曲(sinfonia caracteristica)はある主人公が人生のさまざまな場面を遍歴する物語がある交響曲なのだ。ここで主人公というのは、個性を持った近代的自我を持つ個人なのではなく、ある種の類型(誰かとは名指せないが誰もがいると思うような性格の持ち主)である。ベルリオーズの「幻想交響曲」の主人公のような個人ではない(逆に言うと、近代的自我をもつ個人の妄想を50分の音楽にしたというのはベルリオーズの天才的な発想:まあバイロンのような破天荒な人生を知っていたからだろうけど)。「田園」の主人公は名前や個性を持たない類としての人間。それが天候の変化でどんなに気分を変えていくかを描写する。「英雄」の主人公は笠原潔「西洋音楽の諸問題」(放送大学教材)によると、自己犠牲で人類を救済する英雄から新たに生まれた人間に変わる。俺はそういう詩的プロブラムを第5と第7にもみたい。で、第9にも私的プログラムがあり、ある性格を表現しているという。さらに、シラーの詩からカント「永遠平和のために」の理想を見ることができる。
(器楽は正確を描写し詩的プログラムをもっていると共通認識は、アーノンクールモーツァルト最後の3曲の交響曲分析や、笠原潔の「英雄」交響曲分析や、片山杜秀の第9分析がでてくる根拠になる。)

 性格交響曲(sinfonia caracteristica)はベートーヴェンの造語のようだが、交響曲は性格を描くものという考えはたぶんドイツ語圏内では18世紀には共有されていた。しかし、19世紀になるとこの考えは急速に廃れている。18世紀生まれのシューベルトには残っているようだが、19世紀生まれの新し物好きシューマンになるともうなさそう(保守派のメンデルスゾーンブラームスにはまだあるかな)。20世紀のショスタコーヴィチにはその意識はあったように思える。作曲家や音楽大学では共有されていたのかも。でもドイツ教養主義ディレッタントに席巻したので、交響曲は純粋音楽とされてしまった。18世紀の伝統は消えてしまった。

(加えると、性格・感情・情念などの概念はロマン主義以降価値の低いものにされたが、アリストテレスデカルトが問題にしているように、西洋哲学ではとても重要で価値の高い概念。21世紀の言葉の使い方で判断すると誤ってしまう。俺はまだ把握していないので、ここは指摘するまで。)

 

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