高校生の時に読んだ。懐かしい。松浪先生は70歳の前後で脳卒中にかかり、以後老眼と合わせて本を読めなくなった。そのことの苦渋が晩年の「哲学以前の哲学」1988に書いてある。文字が大きい孫の絵本しか読めないという述懐に戦慄したものだ。今は電子書籍でその苦渋はずいぶんやわらげられているはず。今の俺のように。

さて、1950年代に日本では「実存主義」が大流行。日本のサラリーマンが満員電車の中で「存在と無」を読んでいると、サルトルがびっくりしたくらい。たぶんマルクス主義の流行に乗れない人たちがこちらに向かったと思う。そこで1962年に本書がでた。よく読まれた。
その「実存主義」。著者は西洋哲学の古今の書を多読熟読した(その成果がこの著に反映)。ここに登場するだけでも、パスカル、キルケゴール、ニーチェ、ドストエフスキー、シェストフ、ベルジャーノフ、フッサール、ハイデガー、サルトル、マルセル、カール・バルトらの名前が出てきて、だれからも引用をたくましくする。主要著作を手際よく解説する。

(この図にでてくる人の本を一通り読んでメモしているはず)
その勉強家ぶりに感心するのであるが、では「実存」「存在」が読者に確かに伝わったかというと心もとない。「実存」の説明を抜き書きすると、「精神である」「自己から脱出して存在の明るみに立つこと」「自由であること」など。他にもある定義ないし言いかえを抜き出すと十を超えるのではないか。それでは「実存」はあいまいきわまる概念で、使い勝手がよくないものでしかない。
でも、「存在の大いなる連鎖」を適用すると、形而上学と実存主義はとてもすっきりする。すなわち、この世である世界(宇宙ではないし、自然でもない)とまったく相いれない異世界(あの世)がある。異世界には創造主や神がいて、この世を生成した/する原因になっている。異世界から〈何か〉がこの世に流出していて、この世の物質が呼応/反応/共感などして生命が誕生した。生命には様々なレベルがあり、最高位にあるのは創造主ないし神の似姿としてある人間。人間は他の生命とは異なる特権・優越性をもっている。生命の目的は異世界の創造主や神の完全性や永遠性を獲得すること。でもこの世の物質が制約を持っているので、完全性や永遠性を獲得するにはほど遠い。こういうのがプラトン以来の考えで、西洋の物事の考えかたの枠組みだ。これをベースにすると、ハイデガーが存在と存在者を区別したのは了解できる。異世界から流出している〈何か〉が存在であって、この世に生成した個物が存在者。人間だけが特別な能力、権利などを持っているのは神の似姿であるから。なのでハイデガーもサルトルも他の存在者とは人間を区別している。神はいない、死んだといっても異世界が消えたわけではない。〈何か〉の流出で生命や人間などの存在が生成しているという考えは継承している。でも神との切断が起きているから人間はダメになっている。近代の頽落している人間が本来性を回復すべきというのは、異世界の完全性や永遠性を獲得すべきということ。存在を超越せよというのは創造主や神の属性である完全性や永遠性を獲得せよということ。上にあげた「実存」の様々な言いかえも、「存在の大いなる連鎖」に沿ったもの。どこにフォーカスしているかの違いでしかない。
(実存主義の巨頭であるハイデガーやヤスパースは難しそうなことをいっているが、本書の要約を見る限りでは西洋の考えの枠組みにあると考えれば納得。たとえばハイデガーの「世界内存在」も、世界はこの世(宇宙より広い)なので、存在は世界なしに生成しえないから、ノンセンス(意味なし)・トートロジーなんだよね。ヤスパースの「状況内存在」も同様。情報量ゼロの空虚な概念。サルトルは神はいないし、人間の本来性などないといっている。俺からすると異世界とこの世を否定していないので、西洋の考えの枠組みや形而上学から逸脱していない。)
(「神がいなければ人間は何をやっても許される」とドストエフスキーは考えて、神の掟(律法)を踏み越える新しい人になることをもくろんだ(「罪と罰」のラスコーリニコフとか「悪霊」のスタヴローギンとか「カラマーゾフの兄弟」のイワンとか)。「神は死んだ」といったニーチェは人間も神になれると主張した。でもこの世の物質の制約を受けているので、それを乗り越えるために超人になることと永劫回帰を提案。それで完全性と永遠性を獲得できる。さらに、人間が神になれるのは、すべてを自分で選択し決断できることを意味する。善悪や道徳の基準を自分の外部に持つ必要はないし、創造主や神の命令を聞く必要はない。それが新しい人の自由。以上の考えは19世紀後半から20世紀前半にかけてよく見られた主張であり、哲学である。)
おもえば、「実存」の考えがでてくるゆえんは、19世紀の危機にある。政治経済では西洋の帝国主義は最高長期。地球のすべての土地を支配したかに見えた。でも、そこに西洋人は安心できない。すなわち、帝国国家は列強の合同と反目で不安定であり、市民や大衆の政治参加の道は閉ざされ、資本主義によって格差が拡大し、生活と労働は分離し、国内マイノリティと植民地は抵抗と反乱を準備していて、移民と難民によって民族的団結は危機にさらされている。その一方で、富の蓄積は退屈と倦怠をもたらし、神を信仰することはバカらしい。現状に対する不満があり、周辺には危機を感じ、未来には不安を持つ。この時代の西洋人の基本感情は退屈と不安、そして変化・進化への恐怖。このような現状把握、というか予感は、19世紀の恐怖小説、ホラーに書かれた。実存主義哲学者が述べている現状認識はホラーに書かれた不安や恐怖とほぼ同じ。西洋は繁栄の絶頂で、自信喪失に陥ったのだ。それを現実として押し付けたのが、二つの世界大戦と労働者革命の成功。これで西洋はそれ自体でどうにかなるという見通しをもてなくなった。以後、西洋は非西洋を取り込んでアップデートすることになる。
実存主義は19世紀以降の西洋の危機で生まれた哲学。それは「存在の大いなる連鎖」その物の言いかえか修正だ。新しさはない。というか神学と形而上学のデッドエンドなんだと思う(実存主義の書き方はホラーに似ている。読者を不安にさせ、恐怖を感じさせる。解決を提示しない。その克服のために苦悩を要求する。そういう書き方が読者を産み、熱狂させたのだと思う)。
実存主義はそのあと構造主義やポスト構造主義で批判された、らしい。批判は西洋中心主義とか人間中心主義とかだったはず。よく知らないのでとくにいうことはないけど、「存在の大いなる連鎖」批判からでも、同じことを言えた。
東洋でもこの世(世界)とあの世(異世界)があることを考えの枠組みにしているが、西洋のようにあの世(異世界)に憧れを持たないし、あの世の存在を道徳や善悪の判断基準にはしない。なので、西洋の形而上学や実存主義にはどうにも違和感をもつ。難解さにありがたさを感じるかもしれないが、上のようにまとめるとたいしたことは言ってないと思うんだよね(なんという傲慢!)。といって、西洋を東洋が超克したとか、東洋思想こそ21世紀の危機の克服の鍵だとかいうのはバカげている。西洋がダメだから日本スゴイにはならないので、注意。西洋が形而上学と対峙して克服するべきであるのと同じように、日本は国体思想と対峙して克服しないといけない。西洋の問題に比べてショボいがやらないとね。
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