ホラーを哲学する。分析を明快にするために、ホラーは18世紀後半に生まれて、テキスト・音声・映像で表現されたもの(小説や詩、戯曲、ラジオドラマ、映画、TVドラマなど。マンガやアニメ、ゲームも入れていいだろう)。さらに自然科学では許されない存在が登場するものとする(幽霊屋敷はNGで、ゾンビはホラー。「バスカヴィル家の犬」「クージョ」のような実在生物が登場するのはNGで、人と生物のハイブリッド(人狼、ハエ男、ワニ人間など)はホラー。軍隊アリやピラニアはNGで、巨大昆虫や巨大サメはホラー。サイコパスはNGで、宇宙人や意志を持った機械や悪魔憑きはホラーなど)。ポーやホフマンなんかはホラーではない。とても窮屈な感じがするが、哲学者のテーマは「なぜ人は存在しないものを怖がるのか」にあるので仕方ない。それに、ホラーの対象がアメリカ(とせいぜいイギリスの英語圏)で作られる作品に限定しているのも窮屈。日本の作品で取り上げられるのはゴジラ・ラドンなどの怪獣映画のみ。というのは、1990年(初出)までにアメリカで流行ったのはそれだけだから。日本でホラー研究をするとき、本書で取り上げられたものだけを対象にしたら、リサーチ不足と指導教官につっこまれそう。

大部分は分析。1.モンスターへの感情は拒否、危険、嫌悪、不浄。その感情が誘発される。存在しないのに、なぜ怖がるのか。これまでの研究では、ふり、ごっこ、キャラとの同一化、想像力などで説明(著者の主張はなし)。2.ホラーのプロットはパターンがある。侵略発見型(プロットは登場-発見-確認-対決)と越境者型(マッドサイエンティストや狂気の宗教家、「プロメテウス」のような善意:プロットは準備-実験-失敗-対決)。対決では、道徳的に正しい解決と克服困難な課題の差とバランスが大事。ストーリーの中核にあるのは、疑問と解答。大小いくつもの謎が現れ、解かれていくことで興味・関心が持続される。3.ホラーを求める理由の分析はいろいろあるが、著者によるとどれも部分的な説明だけ。もっとも不満のない説明は魅惑・好奇心であるとのこと。
初出は1990年、邦訳は2022年。取り上げられる例が古めなのはこのタイムラグのせい。
著者も訳者もこのジャンルに一家言持つような人はさまざまな突っ込みをするだろうといっている。俺も、都筑道夫ならもっと実作に近いところで分析しただろうなと思った。あと対決に当たる人間の側のプロットもある。発見のあと、クルー探し-分裂-犠牲-団結をへて対決に向かうというプロジェクトマネジメントの物語もあるのだ。18世紀のゴシックと19世紀のホラーと20世紀の映像ホラーは質的に違うよ。という具合に、それほどホラーに関心がない俺からみても、本書の分析は不十分。ページが多い割には主張はあいまい。過去の議論の整理にはよいかもしれないが、さほど役立たない。この分野では英米の哲学界(あるいは文芸批評界か?)はたいした議論をして来なかったという印象。
半可通の俺が思うには、本書は質問の立て方がだめだった。俺が質問するととこう。なぜ非西洋ではホラーが生まれなかったのか。モンスターの共通の特長はなにか。ホラーから読み取るのは恐怖と嫌悪だけなのか。
本書にも似たような問いがあり、解答がある。ホラーが生まれたのは18世紀なかばの啓蒙主義時代。科学主義の影響。モンスターには拒否、危険、嫌悪、不浄が共通感情喚起される。ホラーには発見や越境者の物語のほかに、正常が異常なものに侵犯されて正常に復する物語がある。解答は十分なように見えて(個々の解答は俺も首肯する)、しかし不十分。もう一声の突っ込みがあればよかった。
そこで補助線にするのは、ラヴジョイ「存在の大いなる連鎖」。プラトン以来2500年もの間、西洋の考え方の基本になっているものだ。詳細は参考エントリーを参照。簡単にいうと、世界(宇宙よりももっと大きい)は創造主や神によって作られその作動因が世界に流出していて、人間や生き物はこの流出によって「在る」というもの。これが18世紀になって劇的に変化した。地球が世界の中心でなくなり、もっとも地獄に近いクズな存在からすこしはましな存在になった。途切れない流出によって世界とその中に在る生き物は変化するものになった。地球と同じような星が世界には無限にあることになり、そこには人間に似た存在がいると信じられた。天文学や力学の観察成果や、博物学による新種の発見などによってこの考えはさらに強固になった。すなわち、人間によく似た宇宙人や、人間と既存生物の間にあるさまざまな未発見の生物が無限にあるはずである。空想生物は未発見なだけであり存在の可能性があるかぎり意味や価値があるのだという考えに基づく(当時の博物学図鑑には実在生物と空想生物が同じページにレイアウトされていた)。宇宙人や空想生物には、創造主や神の恩寵の対象でなく、地獄に向かって下降するものがいる。それは彼らが知性や想像力など人間に具わった能力をきちんと使っていないから。しかも人間のなかにはこの能力を使えていないものがいる、ということはこのような低劣な下降する生き物によって人間は騙され、襲われ、喰われて地獄に行ってしまうかもしれない。それは死後の復活を損なうこと、創造主や神の目的にかなわないこと。それこそが恐怖。
人間が下降し地獄に行くことになる可能性を示唆し、そうならないよう喰い改める物語が生まれた。それが18世紀半ばのゴシック小説。ウォルポール「オトラントの城」が嚆矢。このような「存在の大いなる連鎖」や神の流出する力で人間が上昇するという思想は西洋だけのもの。なので、ホラー(作者が定義するもの)のもとは西洋でしか生まれない。啓蒙主義と科学主義は18世紀の重要な思想で運動であるが、社会全体で共通されていたわけではない。社会の主要な考えは上のようなもの。
モンスターには拒否、危険、嫌悪、不浄の感情をもつというが、これは話が逆。さまざまな存在しない生き物を想像する中で、このような感情を喚起させる下降し堕落し人間も引き込むような生き物をモンスターと考えるようになったのだ。本書はホラーの対象を存在しない生き物に限定したが、幽霊や悪霊、サイコパス、人間を襲う生き物にもあてはまる。それらもモンスター同様に人間を堕落させ地獄に導くのだ。それらには、モンスターと同じネガティブな感情を持つ。
(キャロルがいうようなモンスター登場型ホラーの端緒はゲーテ「ファウスト」第1部1808年ではないか、と妄想。これを読むと、上に書いたことが全部でてくる。越境者型のホラーの始まりはシェリー「フランケンシュタイン」1816年。)
なのでホラーのプロットは、劣ったもの汚れたものが人間を乗り越えようとするのを人間が阻止するという構造になっている。上の正常-異常-回復でもいいけど、やはり人間が行動することが重要。劣ったもの汚れたものは人間の力によって処罰され滅びる。(19世紀半ばまでは人間の活動で阻止するのではなく、神意などの奇蹟で退治されることが多かった。信仰を回復することが勝利だった。それ以降、西洋人は神を信じなくなり、そのかわりに人間の力が強くなっていった。人間の強さはキャラにも反映されている。冒頭では自信喪失やハラスメントに打ちのめされているものが、危機に会って勇気をだし、対決に向かう決心をして自信を回復していく。そういう自尊心回復、自己回復の物語がホラーでは重要。堕落に巻き込まれずに済んだ安堵、闘って勝利した自尊心、モンスターの登場には人間の堕落に原因があるのかもという反省。これらを確認することが大事)
人間の活動によって、社会は復帰する。ここに現状維持をみてもいい。そこでいう現状は作品が作られた時の政治体制のことではない。モンスターと戦う人間には、保守反動もいれば反体制もいる。およそ二百年前の小説を読んで、当時の王政・身分制が回復するのに賛同したりはしない。回復するのは、創造主が世界を作って人間は創造主の目的に沿って上昇するという世界の仕組みなのだ。創造主や神の意図に逆らう生き物が蔓延しないで済む〈現在〉なのだ。なので、ホラーはときに道徳的宗教的正しさを確認することになる。そういう啓蒙の意図も持っている。ホラーを読むことは創造主や神の意図にそって下劣な不浄なものを排除する冒険に参加すること。そして自分の道徳心や宗教心の善さを確認する自己肯定を喚起するのだ。モンスターが勝利するホラーはごく少数なのと、続けて別の作品を消費したくなるのもそのせい。
ホラーは娯楽優位の消耗品エンタメとして生産されているわけではない。道徳的宗教的な善の啓蒙や自己肯定感を向上するプロパガンダ商品でもあるのだ。ホラーが発信しているメッセージは上記のような意味で保守的体制的。
モンスターに魅惑や好奇心を感じるのは、ホラーが生まれて三百年ちかくたったから。20世紀になってから同じモンスターが登場する作品が何度も何度も×n作られてきた。人口に膾炙するようになった、キャラクター商品になった、幼児化されたデフォルメが行われた。オリジナルは知らなくても、デフォルメされたコピーは知っている。そうしてモンスターに対するフェティシズムが生まれた。そういうこと。
(この議論は19世紀以前のモンスター登場型ホラーの黎明から勃興期には通じないだろう。そこは本書の分析にでてくる魅惑や好奇心、謎の解明への期待などで説明すればよいのではないかな。これだと幽霊や悪霊のでてくる民話や神話との差異がなくなるので、民俗学神話学の領域。)
本書では、ホラーが持つ人種や民族や女性や病気や細菌などへの嫌悪や差別の感情はかならずしもつねに喚起するわけではないという理由で退けられた。それは誤り。もともとの「存在の大いなる連鎖」が普及するなかで白人中心や優先の思想もできていった。モンスターや宇宙人を怖がる理由のなかには、さまざまなマイノリティへの差別感情がある。20世紀の後半になってから、差別表現に対する規制ができてから作られたホラーを対象にして考えると誤りになる。
「存在の大いなる連鎖」や流出論をつかえば、説明はもっと簡潔になるのに。勉強不足だなあ。存在しないモンスターは怖いのに見たくなる理由も、ホラーのプロットも、その程度の分析で終わりにしちゃうの?て感じ。この感想ではやらなかったが、啓蒙主義時代の「英雄」人気だとか、19世紀末の「生の哲学」流行からの超人ブームだとかを加えて分析に厚みをだすことができそう。18世紀のゴシックから20世紀のモダン・ホラーや映画をいっしょくたにするのもなんだかな。時代によってモンスターも人間も変わっていくのが無視される。
ホラーを分析することは西洋の形而上学を批判することになる。それこそプラトン、アリストテレスからデカルト、カントまで、さらに射程を伸ばせばハイデガーまで批判できる。そこまでの広がりを持つテーマ。もっと突っ込んでほしかった。
という具合にとても不満な一冊だった。俺が書いたようなことはラヴジョイのほかに、以下が参考になります。
樺山紘一「《英雄》の世紀 ベートーヴェンと近代の創成者たち」(講談社学術文庫)
丹治愛「ドラキュラ・シンドローム」(講談社学術文庫)
大野英士「オカルティズム 非理性のヨーロッパ 」(講談社選書メチエ)
2024年夏にNHKラジオ第二で放送した「カルチャーラジオ ゴシックの扉」(講師:唐戸信嘉)全15回
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丹治愛「ドラキュラ・シンドローム」(講談社学術文庫) → https://amzn.to/4sbNhuY
ノエル・キャロル 「ホラーの哲学」(フィルムアート社)→ https://amzn.to/4bOwSqu
2026/04/08 ノエル・キャロル 「ホラーの哲学」(フィルムアート社)-2 同じ話の解決のつけ方の違いで、ホラーと探偵小説とSFが生まれた。西洋ホラーと日本怪談の特長を比較してみた。 1990年に続く