odd_hatchの読書ノート

エントリーは3600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2026/7/3

逵日出典「八幡神と神仏習合」(講談社現代新書) 列島の人びとは仏教も教義に関心を持たずに現生利益目的で受容する。朝鮮由来の神=八幡神が神仏習合に貢献した。

 日本人の神意識が仏教伝来によって混合合体して、神仏を一緒に祀るようになるまで。古墳時代から平安の終わりころにかけて「神仏習合」が起きた。そのさいに、朝鮮半島から伝来した神が日本の神になった八幡神が大きな影響を及ぼしていた。高校の日本史教科書では簡単に触れられ、主に大和朝廷の立場で語られることを地方の運動からみる。天皇家や朝廷を遠くから眺めているので、相対化した視点で歴史をみることができた。


 日本列島に住む人は神体山信仰を持っていた。神は山にいて存在するが姿を現さない。人びとは豊穣祈願で神を山から迎え(神迎え)、収穫感謝のあと山に戻す(神送り)祭祀を行っていた。祭と巫女が大事。そこで山のなかに山宮を、山のふもとに里宮を、平地に田宮を作っていた。里宮はのちに神社になる、神が常在するようになる。こういう祭祀が行われていたのが古墳時代。
 6世紀半ばころに仏教が伝来する。列島の祭祀と異なるのは、仏は姿を持つものであること、顔料などで装飾されていたこと、楽器を使った祭祀をすること(新しい、うるさい、派手なところに古代の列島人は魅かれたようだ)。豪族で崇仏と排仏の論争があり、豪族が持っている氏神が氏寺になり、祭祀が古墳ではなく氏寺で行われるようになった(そうか、古墳を作らなくなったのは祭祀の変化にあるんだ)。結局、592年に推古天皇は仏教の受入れを決定することで決着。
 このあとの600~800年にかけてが神仏習合期。祖先崇拝だったのが人格神になっていく。豪族ごとにばらばらだった神が国家宗教になったことで同じ神=仏を信仰するようになる。外来の仏教は列島にいた荒ぶる神を圧伏・鎮撫することになった。そして里宮や田宮などの隣に神宮寺ができた。神の前で読経するようになり、祝詞を使わなくなった。
 この時代の大きな出来事が、九州北部(宇佐地方)で八幡神が成立したこと。もともとは新羅の神が伝えられて信仰されていたのが、日本の神になった。ことに719年の隼人の反乱で八幡神の加護で朝廷側が勝利できたとされたことが転換点。列島の自然神・精霊神とは異なり神が生まれ、列島の山の神を吸収した。九州で始まった八幡神信仰は中央の朝廷に伝わり、朝廷も八幡神信仰を他の地方に広めた。八幡神には大菩薩(仏の次の座)の名称が捧げられ、神仏習合のシンボルとなる。各地に八幡大菩薩の宮が作られる。有名なのは宇佐(九州)と石清水(近畿)と鶴岡(関東)。
 神仏習合に寄与したのが本地垂迹説。仏や菩薩が列島の神となって現れるという考え。神は姿をもたないが、垂迹によって出現したのだとする。本地は本源・本来の姿という意味。これが全国に広がり、神社の中に本地仏が設定されるようになる。また武士(特に関東の源氏)が八幡大菩薩を氏神にした。それが全国に波及し、鎮守社となる。八幡は武神になり、元寇の時に最盛期になった。
 列島に住む人々が、外来の思想をどう受容していったかがよくわかる。本書にあるが、古代の人々は仏教の教え(教義や思想)にはあまり関心を示さず、現世利益をもたらすものと理解した。いまでも病気快癒、安産などの御利益を仏からいただくために仏寺を参拝するのに残っている。加えて、国産の習俗はたいてい貧相・簡素。そこにリアルな造形、派手な彩色、奇妙でうるさい音な外来のものが入っていると、ころっと魅かれてしまう。ミーハーで移り気なのだ。
 時々そのバックラッシュで、「昔に戻れ」運動が起こる。神仏習合は600年から1800年代のなかばまで続いたが、1867年の明治政府による神仏分離令で終了。神社から仏像や資料が撤去され、仏寺の半分が破壊された。神宮寺もなくなり、八幡宮も消える。武家の支援を受けなくなった仏寺は衰退する。廃仏毀釈は別書で補完。

 

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