約20年前に読んだ渡辺照宏/宮坂宥勝「沙門空海」(ちくま学芸文庫)を思い出すと、空海が「三教指帰(さんごうしいき)」を書いたのは23歳のとき(空海774年生まれ、書いたのは797年)。四書五経はおろか、史書や仏教書まで読み漁り、縦横無尽に引用する。本書はほとんど引用だけでできたかのよう。この年にして博学には比類がない。恐るべき青年(なんという不遜)。

ここで注目するのは、全編が漢文で書かれ、途中に漢詩も添えられていること。確かにこの時代は日本語を書く道具はない。漢文で書くしかない。つまり他民族の言語で自分の考えを書く。後から覚えた言語で、その語彙と論理を正確に使わないと伝わらない。それを20そこそこの若者がやってしまった。のちの中国旅行でも空海の中国語は完璧だったという。ときに学識は中国の知識人を驚かせた。なんというか、こんな天才、日本に出たことはないわ。
そのせいか、空海は日本の文化には関心を持っていないようす。「三教指帰」に登場する逸話は漢籍にあるものばかりで、記紀に書かれたものは登場しない。万葉仮名を使って和歌を詠むこともない。本書のなかでも神道はでてこない。中国留学から帰った後、空海は宮廷に接近して政治的に動くこともあった。そこで仏教と神道の折り合いはどうつけたのかな。すでに宮廷は仏教化されていたから、問題は生じなかったのかも。
さて、兎角公(とかくこう)が甥の蛭牙公子(しつがこうし)の不良に悩んでいる。そこで、中年の儒教者・亀毛先生(きもうせんせい)と老年の道教家・虚亡隠士(きょぶいんし)に説教してもらうことにした。きもうせんせいは、人は環境に染められるから切磋琢磨しろ、仁義礼智信を実践して国家のためになれという。きょぶいんしは、人には器があってそれ以上にはならないから、仙人になるために世俗を捨てろ、欲望を断て、喜怒哀楽を超克せよという。たまたま通りかかった青年の仮名乞児(かめいこつじ)がそれではいかんと自作の詩を朗読しながら、仏道こそ人間の本道と主張する。かめいこつじの主張をまとめても間違いだらけになると思うので、俺が気づいたことをメモ。
仏道こそが真理であり、儒教と道鏡はその一部なのだ。どこが優れているのかというと、
・六道輪廻(りくどうりんね)の考えで異世界(あの世)があるとする。
・地上より広大な宇宙があるとする。
・現生よりも長い時間があるとする。
儒教と道教はこの世の〈今〉を問題にするけど、仏教はもっと大きな空間、もっと長い時間を考慮している壮大な考えなのだ。テーマは人間の死とその後。罪と罰に自覚なしに死を経ると、六道の低いところをうろちょろするだけ。そういう低俗な生には価値はない。人間の本義はさとりとやすらぎを得て仏陀になることなのだ。そのためには修行せよ、具体的な方法は仏教寺にはいれ。
こんな感じか。仏教が儒や道と比べて優れているのは、この世がまず広大で無限であり人間には体験しつくすことはできないと示すこと。この世での生にきゅうきゅうとしていたり、ニヒリズムに陥ったりしていると、癒しも救いもない。そこであの世(異世界)が完全であり永遠であることを示す。そこに行くことができれば人間は不完全さや終焉から脱却できる。この世の道徳や善は儒も道も仏も対した差異はないが、意味や意義をより「深く(とは何か)」提示することができる考えなのだ。
帰国後の思想の充実からすると、漢籍や仏教書のコピペ。ここではオリジナリティよりも、編集能力を評価しましょう。仏教が伝来して数百年たっていたはずだが、これほど本義をはずさず、しかも平易(漢籍を読んでいた宮廷人や宗教家にはすぐにわかる。それに物語仕立てなのも親切)な解説がかかれたことはないはず。後世畏るべし。
(青年の仮名乞児(かめいこつじ)だけ、生まれや境遇や修行のようすや日常の規範などが書かれる。ここは空海の幼少期と思春期の経験が反映されていると見た。自分を投影して、キャラを英雄に仕立て上げているんだね。若者らしい自意識と稚気がほほえましい。)
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