odd_hatchの読書ノート

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エラリー・クイーン「二百万ドルの死者」(ハヤカワ文庫)

ギャングの大物バーニー・ストリートが殺され、二百万ドルの遺産が残された。当然自分の手に入るとおもっていた妻のエステルは、遺言書に目を通し、愕然とした。すべての財産を、戦時中命を救ってくれたチェコスロバキア人ミーロ・ハーハに遺贈するというのだ。この男はいったい何者なのか? おさまらないエステルは、自分の浮気相手でバーニーの片腕であったスティーヴに、ミーロの探索を頼む。さっそくヨーロッパに飛んだスティーヴだったが、チェコの政権争いに絡む巨大な陰謀の罠が彼を待ち受けているとは、彼の知る由もなかった。
二百万ドルの死者 - エラリー・クイーン(移転しました)

 初出の1961年といえば、ベルリンの壁のできる数年前。鉄のカーテンのまわりは非常に緊張が高かった。このころ、いわゆる西側諸国に東欧諸国およびソ連はヴィザを発行しなかったので、入国が簡単にできるわけではなかった。政府の関係者、特別なコネのある企業人、あるいは招待された文化人、ないし社会民主主義共産主義の政党に所属しているもの。それくらいしか入出国はできないし、入国中は政府の案内人による監視がついていたのだった。当時の東欧諸国は秘密警察があり、密告奨励の相互監視社会。密入国したらどうなるか、という恐怖の感情があったのだ。ヒッチコック「引き裂かれたカーテン」もリアルであるような時代。というような背景を簡単に押さえておかないと、このストーリーは荒唐無稽におもわれるかもしれない。
 上記のサマリーだと主人公はバーニーにおもわれるが、実際は彼の弟で大学を卒業したばかりのアンディ。彼は、バーニーにルーという相棒と異なり、ドイツ語に堪能なのでオランダ、スイス、オーストリアチェコスロバキアという各国めぐりのロードムービーにおいて通訳兼ジゴロをふるまう。行く先々で、ミーロに関係した女と会うのだが、全員と関係を持ったのだった。もちろんこれは世間知らずの坊ちゃんが一人前の男になるまでの通過儀礼である。まあ、サイドストーリーとして彼の成長譚も語られるのであった。実際、複数の女遍歴のあと、彼のベアトリーチェになりそうな東欧の可憐な女性と知り合うのだし。
 もう一度、この素人スパイ小説に戻ると(カテゴリーはここになるだろう)、チェコの秘密警察のまいたえさにさそわれてスティーヴにアンディ、ルー、なぜかエステル自身もチェコスロバキアに侵入しようとする。関係者が殺されるのは必然であり、入国に成功したものの身動きが取れなくなるのもいつものこと。そして、秘密警察のもうひとつの策略のコマにされることになり、現場に居合わせたアンディはなすすべもない。
 自分はスパイ小説に詳しくないので、このような東欧スパイとの対抗を主題にする小説群のどこらへんに位置するのかよくわからない。とりあえず途中の秘密警察やミーロの所属する社会民主党の秘密の会合あたりの描写を、そうだな、アジェンデ「精霊の家」、プイグ「蜘蛛女のキッス」と比べてみてはいかが、と提案してみよう。どうみても後者の方が優れているのだけれど。あと残念だったのは、プラハが舞台になったが、カフカ的な雰囲気に乏しかったこと。ああ、ミラン・クンデラチェコ時代の小説を読むと、同時代の雰囲気を味わえそうだ。
 登場人物の名前がリチャードとかジョンとかロナルドとかではなくて、ゲルトルーデとかゲルハルトとかヴァクラフとかのゲルマン・東欧系であるのが新鮮。めったに出会うことがない。いつか、エフゲニーとかスヴァトラフとかテミルとかキリルとかのスラブ系の名前の出てくるミステリーを読めればいいなあ。
 どうみてもオリジナル・クイーンの書いたものではないな。