週刊本の一冊。著者のもとにフランスの友人から稀覯本が送られた。そこにあったのは、ある女性の性器を映した100枚の写真を集めた「とある女性の性器写真集成百枚 ただし、二千枚より厳選したる」という写真集。発行された1984年では、まだビニ本・裏本はあっても、書店で買える雑誌やレンタルビデオ店で借りられるビデオには陰毛は映っていない。1984年当時の性風俗の最先端は覗き部屋にノーパン喫茶だった。変化が出るのは1988年ころかな。樋口可南子や宮沢りえの陰毛を写した写真集が販売されるようになり、「ヘア無修正」というビデオ(からみはなし)が流通するようになった。そのころに、芸術新潮や別冊宝島が性表現の100年というテーマの特集を組み、男性器と女性器がそのまま映った写真を掲載したのだった。上記の写真集の数枚も、1990年前後に出版された上記雑誌に掲載されたと記憶する。その一方、エイズの啓蒙がさかんに行われていたのもこのころ。というわけで、四半世紀ぶりに読み直す。
面白い論点をいくつか。
・登場する映画は、ヴェンダース「パリ、テキサス」、タルコフスキー「ノスタルジア」、マカヴェイエフ「スイート・ムービー」(この本に影響されて中古VHSを買ってしまった)。芸術家はデュシャン、ダ・ヴィンチ、ブレイクあたり。著作家はフロイト、ロラン・バルト。
・女性性器を見ることに、なぜか人(女性はどうなのだろうか)は固執する。あるいは性器を見ることで女性がわかるという執念に取りつかれている。なぜか。一つの考え方は、女性性器に価値を付ける文化があるから。母性的なもの、真理のメタファーとして女性性器があるという神話。あるいは宇宙や世界全体をモデル化するときに女性性器を用いるという文化システムがある(荒俣宏「風水先生」集英社文庫に、風水の理想的な都市は女性性器の形になるという話があったな。ちなみに福岡県の太宰府天満宮がまさにその例なので見物にいってくださいな)。
・そうしてみると、哲学探究と推理小説とストリップは同じ知的営為になる。いずれも隠されたものを暴く行為であり、隠されたものが開示されることに快楽を得るのであるから。あと隠されたもの=真理であるという神話がいずれにも共通していることに注意(荒俣宏「目玉と脳の大冒険」筑摩書房だったとおもうけど、近代西洋では知性を寓意図にするときに、女神の乳房のヴェールをとることであらわしているということが書いてある)。
・女性性器を写したり描いたものでも芸術とポルノにわけることがある(あるいはソフトポルノとハードコア)。どのあたりで分類されるかというと、芸術やソフトポルノには撮影者の署名があり、(ハードコア)ポルノでは撮影者は無名である。ときには被写体が有名人であるものもあるが、これはジャーナリズムとかスキャンダルとかそういうところになる。ところで、ポルノの制限を女性抑圧の象徴として理由付けすることがあるが、それはおかしい。OKの規範を提示する(たとえば過去の芸術作品など)としても、そこからずれる作品というか写真・映像は生産され続けるし、かつて規範とされたものが別の意味を背負ってポルノになってしまうこともある(「ナチス女看守」「修道女」「くの一」「巫女」ものみたいな)。
・母親の性器は隠されるものであるが、老年で介護することになったり、葬儀を準備したりで、母親の性器を見ることもあるだろう。それはショックであるのか、あそこから生まれたのかという述懐になるのか、自分の存在の核心にふれたことになるのか、ここらへんの記述がなまなましいな。(というか、この記述はバルト「明るい部屋」を読み、バルトが母の少女時代の写真に見入ったという記述から生まれたもの。自分はそこまで想像力が伸びなかったので、少し悔しい。)