一時期(1970−80年代)、作者の本はよく読まれたなあ。学生の部屋にはたいてい一冊転がっていたのではないかしら。とはいえ1990年代中ごろから名を聞かなくなって、どうしたのかねえ。なにやらスキャンダルがあったようだが、興味はないので調べない。
週刊本の一冊。例によって語り下し。彼の言説は「すべては幻である」の変奏であるということであって、本人も同じことをいっている。それをいろいろな状況にあてはめて、時に時事まで語るのだけど(「ものぐさ精神分析」はとうに廃棄したので、何を書いたのか覚えていない)、この語り下しは彼の考えをまとめて知るには便利ではないかな。まあ、実証に耐える証拠を出せとか観察結果をだせというとそんなものはないので、「科学」ではないことに注意。精神分析や心理学がサイエンスになる必要はないけど。
希望の原理 ・・・ この国の人は近代的自我を確立しようと悪戦苦闘してきたのだけど、それと大東亜共栄圏の思想および行動パターンはそっくり同じ。なにしろ近代的自我は根拠のないところに、「自我」を確立するのだから、もともと幻想とか共同の妄想などの上に作らないといけない。でも根拠がないことを自己に認めさせると困る(だれが?たぶん気分の統合性とか性格の継承とかそんなことか)ので、自己愛が崩壊する一歩手前で思考停止している。その根拠レスなところを埋めようとしたときに人が取るのは、自己放棄(して空虚を埋める観念、たとえば大東亜共栄圏とかネーションとか革命とか、に全面的依存する)か自己拡大(して自己が全能でありすべての決定権を持っているを思い込むこと)のいずれか。どちらも社会とか世界(すなわち他者)との交通において挫折する(それが太平洋戦争の敗戦だって、へー)。自我を確立しようという根拠なき行動については、戦中のナショナリズムも戦後の民主主義的思想活動も同じ穴のむじな。あと、欠点を克服しようとする「決心」は常に挫折するとのこと。
自我は他者 ・・・ で自我は自己自身で作ることはできず、他者の自我をコピーする。そのとき、自分がこうなりたいと思うような他者の自我のうち自分に都合の良いところ(あるいはこうありたい自分と一致するところ)をコピーする。でこういうコピー-ペーストがずっと繰り返される。一方、自我は万能で完全な指揮官・司令塔のごときものであるという妄想もある(それがデカルトだってさ)。したがって、自我は常に現実や他者に敗北し不能感にさいなまなれる。それを埋めるのは他者の自我との比較。ささいな差異でもって自分の自我を優越であると思い込もうとする。
身心の妥協 ・・・ で自我は全知全能であろうとする(それが自己放棄に由来するか自己拡大に由来するかは置いておくとして)のだが、身体は全能ではない(逆上がりができないとか100mを5秒で走れないとか)。そのギャップのために無力感が生まれる。そこが精神による身体嫌悪の理由がある(おお、ここで笠井潔の観念倒錯の病理としての身体嫌悪につながったぜ)。でもって自我はいつも妥協していて、ときには組みなおしが必要。そこをうまくするために儀式(イニシエーションとか結婚式、葬式など)が必要で、組みなおしがうまくいっていないのは精神症。あと、ヨーロッパの文明は地域的で、そこの自我が不安定で他者と比較していないとうまくいかない(なにしろキリスト教の理念とヨーロッパの精神は違うのに、一神教=砂漠の神を受け入れないといけないから)ので、精神症状態なおかげで外に出て行ったのだってさ。なんじゃそりゃ。他の文明はそういう自我を持っていないので拡大しなかったとの由(まあ明治維新後のこの国の帝国主義的な拡大路線は説明つくとして、秀吉の朝鮮出兵とか倭寇とかは個人的な病理で説明するのかな、まあいいや)。
科学的な手続きを経ていないので、自分には理解するのは難しいけど、納得できるというところ。納得には論理や証拠はいらんからねえ。これで国の精神分析をしても、お話としては面白いけど、経営とか政治とかには使えない。使わないのがよし。ではどういう人にこの話が有効かというと、まさに自我の組み直しをしている最中のひと。自分がこだわっていること(過去にしろ、現在にしろ)は自分の内部でもっては解決できないわけで、そのとき、こういう別の視点の物語を聞くのは凝りまくった精神をやわらかくするのにいいんじゃない。あるいは自分の信念とか情熱とかが思い込みであるとか、他人の自我を借りているだけとか、自己放棄の末に侵入してきた別の観念であるとか、そういうチェックをするのにいいのじゃないかしら。そういう思い込みにとらわれている人は、精神分析の本やこの作者の本は読まないだろうけど。
では1970−80年代にこの著者の本に熱狂した人は、そういう治癒効果を期待したのかしら、治癒できたのかしら。