odd_hatchの読書ノート

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ヘレン・マクロイ「殺す者と殺される者」(創元推理文庫)

 20代半ばになって心理学の講師をしている独身男性ハリーに遺産が転がり込む。莫大な年金はインフレがあってもなお、職につかなくてすむだけの額であり、さっそくハリーは大学に退職届を出した。あるとき、氷で滑って後頭部を強く打ち脳震盪を起こす。それから復帰して、亡き母の故郷クリアウォーターに移住することにした。そこには幼なじみのシーリアが暮らしている。なんとかしてよりを戻せればと思っているのだ。
 ここからしばらくの間は、独身男性の視点で一方的な愛情が語られる。自分の感情が最も正しくて、自分のやりたいことが相手に全面的に理解されていると思っている。もちろんその現実認識は挫折する。この内容を女性作家がリアルに描いているのに驚いた。

 久しぶりに帰郷するハリーの身の回りには奇妙なことが起きる。彼の知らない海軍軍人がいきなり話しかけ、これも久しぶりの再会になったいとこのレックスとは子供時代の記憶がずれていて(ピンポンで勝ったのレックスだと思っていたが、レックスはハリーに負けたという)、差出人の書いていない手紙が書斎に置いてあったり、免許証が紛失して数日後に自室で発見されたり、知らぬ間に小切手が切られていてあやうく不渡りになりかけたり、幼少時代から知っているシーリアの父にヘンリーと呼ばれたり(ヘンリーとハリーは代用可能)、恐ろしいのは自分の顔が異常に老けていてどうみても30代の後半にしかみえないこと。そこで新たに購入した屋敷から鏡を撤去してしまう。ここらの不可解な出来事と、男からの一方的な熱情はゴシックロマンスのもの。ここまでの前半はウィリアムソン「灰色の女」を思い出した。
 シーモアとようやく再会できたのだが、全く連絡がないまましばらくまえに結婚していた。観察力の鋭い養子が一人いる。夫サイモンは酒が入ると豹変して、ハリーをねちねちといたぶる。おまえは10年もシーリアのことを思っていたのだろうが、今は俺の妻だ、手をだすんじゃねえ、そういって酔いつぶれる。憤慨して辞去するが、シーリアの家の周囲を徘徊する謎の人物がいることがうわさになっていて、気が気でない。ある夜、シーリアの父に呼び出されると、ワシントンに行っているはずのサイモンが帰ってきて部屋に侵入したところをシーリアが射殺してしまった。使われたのはハリーが護身用にと預けたリボルバーだった。
 ハリーは幼少時代の記憶が断片的で、シーリアやレックスとの話が時にずれることになる。そこから語り手の「私」であるハリーは自分の過去を検証して、自己が自己であることを探究しなければならない。なるほど、同時代にジャブリゾ「シンデレラの罠」やアイリッシュ「黒いカーテン」のように記憶喪失になったものが、過去を探究する物語がたくさんあった。そこにはソポクレス「オイディプス」の主題が隠されているのであって、これもまたオイディプスの物語の変奏であるといえる。そのうえ、書かれた1957年という年には、過去ほどではないにしろ、フロイトらの精神分析が流行っていたのであり、作者もその種の素養があったとみて、心理学の記述は詳細である。そうすると、前掲の「シンデレラの罠」「黒いカーテン」は自己が自己であることの確証は自分の外側に見出すのであるが、こちらでは自分の内部に封印されていることを開けることによって自己が自己であることを確認するしかない。なるほど冒頭で起きた不慮の事故はずっと原因であると思っていたのだが、じつのところはその瞬間におけるアイデンティティクライシスにおける防衛機構であったのか。そして、ハリーの周囲で起きる不可解な出来事も合理的に説明可能な事態にほかならないのであり、それを知ることでハリーはようやくアイデンティティを回復するのであるが、そのときには手遅れの事態になっている。
 という具合に、「真実」の周辺を回りくどく書いているのは、この小説がダイダロスに命じて作らせた迷宮(ラビュリントス)にほかならず、ハリーはアテーナイの英雄テーセウスとして迷宮の奥深くに分け入らなければならないのであるからだ。そしてタイトル「殺す者と殺される者」が二重の意味をもっているのであり、ひとつは小説中で登場人物の口で語られる、もうひとつは本を閉じた後に読者が見出すものなのである。「私は誰か」の問いに自ら答えることは、オイディプスならずとも苦いのであった。見事な傑作。この作家はただものではない。

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