odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

荒畑寒村「寒村自伝 下」(岩波文庫)-2 戦前から戦後。戦いは厳しく、同志は去り、横にいるものはぶれてばかり。しかし寒村は嘆かない。怒りを忘れない。

2019/10/21 荒畑寒村「寒村自伝 上」(岩波文庫)-1 1975年
2019/10/18 荒畑寒村「寒村自伝 上」(岩波文庫)-2 1975年
2019/10/17 荒畑寒村「寒村自伝 下」(岩波文庫)-1 1975年の続き。

 

 戦前から戦後。戦いは厳しく、同志は去り、横にいるものはぶれてばかり。しかし寒村は嘆かない。怒りを忘れない。
 寒村は記憶の人。できごとのあらましをよく覚えている。ことに人の名前と日付(年が書かれていないので調べないといけないのはちょっと困った)。ほかの社会主義運動の活動家はこれほど詳しい記録を残していないので、寒村自伝は第一級の資料。

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『労農』十年のたたかい ・・・ 福本イズムをめぐって共産党と論争。結果、除名だか不参加だかで党とは縁が切れる(妻離縁に至る徳田球一の家庭放棄の話がひどい)。かわりに1926年雑誌「労農」を創刊。社会主義者が多数結集。以後、雑誌刊行に取り組む。1937年に雑誌廃刊。治安維持法違反で検挙。1939年釈放。妻が脳出血に倒れる。


太平洋戦争の四年間 ・・・ 1941年妻死亡(この時代は介護は家族が面倒を見て、とても大変だった)。戦争開始。「息を殺して終わるのを待」ったと述懐。(新聞記事などでソ連の粛清の情報を得ていた。なので、このころにはスターリンを批判するようになっている。またその根源としてレーニンにも批判的になっていた。)


社会党を脱党するまで ・・・ 1946年の総選挙で社会党から立候補し、当選(たしか羽仁五郎も当選)。片山連合内閣に反対したり、しかし炭鉱国策案に賛成したり、と社会主義と議会政治の本義にたつたったひとりの抵抗を行う。ちなみに、社会党の連合内閣は民主党(前の与党)や自由党サボタージュや抵抗にあって法案はほぼ骨抜きにされ、社会主義政策は実現できなかった。48年の予算案が否決されたところで、社会党に愛想が尽きて脱党する。このころ再婚。(第1回総選挙はGHQの下で行われて、立候補者はGHQにたくさんの書類をださなければならなかったという。)

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新政党組織の挫折 ・・・ 1949年の総選挙で落選。社会主義労働党から立候補した寒村は落選(ほぼすべての党から選挙妨害を受けたという)。社会党の分裂。60代前半の寒村は胃潰瘍で体調不良。
共産党社会党の派閥抗争、分派運動などが詳しく書かれているが、分析は研究者におまかせ。あまり興味がない。)


亡友のために弁ず ・・・ 1951年。文化自由会議でインドに旅行。帰国後、胃潰瘍の手術。(亡友は小堀甚二。彼が同年に書いた「再軍備論」に批判が殺到したので、彼の論は民兵制であると弁護)。

全体主義への反抗 ・・・ 以後、著述業に専念。大きなできごとは1956年のフレシチョフスターリン批判。寒村は個人の問題ではなく、ボルシェヴィズムにあると看破。

眼中の人、多くは枯骨 ・・・ 1964年と1974年に書かれたエピローグ。同志は去り、社会党と労働運動ははかばかしくない。妻は死に、メンターや同志もいない。老境の寂寞。しかしこの硬骨漢は黙っていない。

「年少、客気に駆られて社会主義運動に一身を投じた時、著作をもって生涯を閉じようとするが如きは、かつて予想だにしなかったものを!(P491)」

 

 自伝に書かれていない寒村の出来事では、公害原論自主講座1971年6月7日での講演が重要。「公害と青年(宇井純「現代社会と公害」剄草書房所収)」。ここでは「谷中村滅亡史」を書いたころの話が出てくる。このとき寒村84歳。そして1981年没。享年93歳。
 このような人をもったことは日本人の誇り。ありがとうございます。