再読した。前回の感想。
2014/02/21 磯山雅「J.S.バッハ」(講談社現代新書)
今回の再読で気になったのはここ。

「罪」というキリスト教的な語葉には、抵抗を感じられる方もあろう。だが、心のうちに高みや理想を思い描くとき、自分の存在そのものに痛みを覚えるという体験は、洋の東西を問わず、広くあるのではないだろうか。私は、これこそ芸術創作の原点であり、芸術に対する感動の原点でもあると思っている。人間の背負う「罪」と、その癒し――音楽においてこの問題をもっとも深く追求したのは、バッハとワーグナーであった(P127)
ワーグナーもそう? と戸惑うのであるが、続けて「救済へのたえざる渇望を、巨大な楽劇にあふれさせた」「この渇望は人間の罪に根ざしたものであり、そこから人間を救済するのは、女性の献身ということになっている」(同ページ)にあるので、ワーグナーの思想はとてもホモソーシャル。当時のブルジョア社会の影響が濃厚に染まったもので、21世紀にワーグナーの罪と救済の思想を検討するには十分注意しないといけない(というか、彼の救済思想は弾劾の対象でしょう)。
「自分の存在そのものに痛みを覚える」というのは、この数年の読書ではドストエフスキーのことが浮かぶ。この19世紀の作家も罪と救済を小説の中で何度も繰り返し考えたものだ。では、たとえばドスト氏が想像したキャラのうち罪と救済をもっとも考えているラスコーリニコフとアリョーシャ・カラマーゾフがJ.S.バッハの孫筋に当たるかというとそうは言えない。J.S.バッハの生涯や作品から社会変革の希求や人類全体の救済というドスト氏の主題を見出すことはできない。近代の価値観でJ.S.バッハの内面や思想を推測することは困難。というかやると間違える。
そうするとJ.S.バッハが考える罪と救済をどこを手掛かりにして考えるべきか。一つはプロテスタンティズム。バッハの時代は宗教と生活は一体であって、区別することができない。フランスのように(あるいはイギリスのように)世俗と宗教を切り分けることが受け入れられない。職業を神のおぼしめしとみなす。そこで職業、生活に宗教心が起こり、両者の区別がつかなくなる。
2022/03/30 深井智朗「プロテスタンティズム」(中公新書)-1 2017年
2022/03/29 深井智朗「プロテスタンティズム」(中公新書)-2 2017年
2015/12/10 ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)-1
2015/12/11 ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)-2
このような心性は近代人には理解しがたい。近代以降の人間は宗教あるいは神を考えないで、社会や宇宙の在り方を考えているが、J.S.バッハの時代ではそれはありえないからだ。「自分の存在そのものに痛みを覚える」「人間の背負う『罪』と、その癒し」を常に考えるのはJ.S.バッハの時代には常であっても、近代以降の人には難しい(ことにキリスト教の規範を共有しない極東の人間には)。
同様に、J.S.バッハの考える人間も近代の人たちが考える人間とは一致しない。近代以降の人が考える人間は啓蒙思想と人権思想に基づくのであるが、バッハの時代では人間はもっと狭い。大航海時代以後にヨーロッパの人たちはキリスト教を持たない/知らない人たちとであい、彼らを人間とはみなさなかった。バッハの時代には異端審問はすたれていたが、ルネサンスから近世では異端の人たちも人間とはみなさなかった。宗教で区別されるのと同様に、女や子供も人間扱いされなかった。その時代思潮のなかにJ.S.バッハはいる。
というわけで、J.S.バッハという人間と近代以降の価値観で推測するとさまざまな誤りを犯しかねない。でもJ.S.バッハの音楽は偉大。近代の聴取者を感動させ、普遍的な人間という観念ともち、平和や自由への希求を聞き取ることができる。その間にはとても深い淵がある。日本で有数のJ.S.バッハ研究者である著者にしても、その謎を明かすまでには至っていない(もちろん俺も)。
まあ1990年に出た本だから仕方ないか。新しい研究成果を反映した本を探すか。
〈トリビア〉
2022/08/16放送の古楽の楽しみ「バロック時代の舞曲と舞踏」から。
フランスのオペラには舞曲がつきもの。舞曲だけを演奏して楽しみたいという要望があったので、オペラの舞曲を抜粋した組曲が作られた。オーケストラ用のものが多かったので、それらの組曲は「管弦楽組曲」と呼ばれた。(なるほど、この様式が「ドイツ」にも伝わって、オペラがない舞曲抜粋音楽をバッハやテレマン、ゼレンカらが作ったのだね。J.S.バッハのさまざまな組曲が舞曲ばかりでできている理由がわかった。)
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