odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

デイヴィッド・ミラー「はじめての政治哲学」(岩波現代文庫) イギリス上流階級向けの教科書。

 イギリス・オックスフォード大学所属の研究者が2003年に書いた政治哲学の入門書。章立てを見ればわかるように、政治哲学の大問題をわかりやすく解説したもの。日本で政治哲学の入門書を書くと、ソクラテスプラトンアリストテレスからカントやヘーゲルを経て20世紀の思想家をたくさん紹介することになるが、ここではホッブスとミル(まれにジョン・ロックとルソー)が顔をだすくらい。自国の哲学者や思想家を俎上にあげるだけで、政治哲学の本ができてしまう。この国のデモクラシーの歴史の厚み(実践と理論)があるからだね。他国の哲学者や思想家を知らなくても済むので、イギリスでは高校や大学のテキストに使われたのだろう。
(それは逆にいうと、現代政治哲学を一通りみるには本書では不十分。ここで枠組みを押さえてから、もっと広範な読書をしましょう。)

1 政治哲学はなぜ必要なのか ・・・ 政治哲学は、善き統治と悪しき統治の本性、原因、結果にかかわる学問。善き統治と悪しき統治が人間の生の質に深く影響を与える。統治の形態はあらかじめ決定されていない。善き統治と悪しき統治を見分ける知識は獲得できる。政治哲学の中心問題の一つはなぜ国家、ないし政治的権威が必要か。政治哲学は時間が経過した後に影響を持ちうる。個人の選択を至高の価値として中心におく。
(政治と宗教の関係を勉強中なのだが、著者のこの考えは西洋中心なのではないかな。統治の目的が神の意志に実現とするような民族・国家ではこの価値観を共有しないし、個人の選択は至高の価値ではない。俺は著者の考えに賛同するが、この考えでは宗教国家との話し合いはできない。うまい考えはないかと暗中模索中。)

2 政治的権威 ・・・ 国家が政治的権威を使いだすのは近代以降(それ以前は公共財の提供などをやらなかった)。政治的権威が提供する安全保障によって人は他人を信頼でき、政治的権威に服従できる(法の処罰を受け入れたり、税金を支払ったり、徴兵に応じたりなど)。この権威がどこから生まれるかの問いには共同体と市場とされる。政治的権威は万能不変ではなく、抵抗や市民的不服従が可能であり、正当であるとされる。
(俺からすると、国家や政治的権威の起源は生産手段をもたず権威を目的にする共同体と共同体の〈間〉にある集団だと思うんだよね。国と個人の間に同意や契約があるのではなく、まず強制力があって、後から同意や計画があるかのように思い込む。)

3 デモクラシー ・・・ 王政や貴族制よりデモクラシーが優れているのは、各人は平等に政治的権利を享受でき、特別な権力を信託されたものは民衆全体に責任を有しているから。でも実際は、自分が直接政治参加するよう努めるのではなく、自分を代表する指導者のチームを数年おきに選択することだけ。そこでは政治的決定が少数の専門知識にアクセスできるものに限られ、民衆は政治に無関心・無知で監視を怠る。多数者の選好が優先され少数者の権利が保護されなくなるという問題がある。公共の議論が大事。
アメリカのサンデルや亡命ドイツ人のアーレントであれば各人の政治的自由の行使を熱心に説得するだろう。著者がイギリスのオックスフォード大学教授であることで以上の記述に納得。上記の記述で十分と考えるのは、イギリスの政治家は民衆全体に有している責任を強くもっているという暗黙の了解があるからだろう。日本ではその確信を持てないから、政治の説明では仕組みと原理が必須になる。)

4 自由と統治の限界 ・・・ 国家(政治的権威)が無条件に禁止されている人間の生の領域があるというのが近代政治の了解事項。善い統治だけでは不十分であるという了解もあった。もともとは宗教の自由。次第に、職業選択、居住、婚姻、政治参加などに拡張された。自由の意味と限界を示す必要がある。前者は選択肢の範囲と選択する能力であり、後者は物理的な障害と制裁と本書は記述。また自由を実行するコストや制限することによって不利益を回避できることで自由が制限されることがある。自由は他者の気分を害したり、危害になったりすることがある。国家(政治的権威)の介入が制限されることがあり、それは「人権」を呼ばれる。自由以外の原理を考慮することも必要(平等、公平、自然の尊重、文化の保護など)。
(自由はそれだけで大部な本になるような大きな問題。この章では同国人のミルだけが参照される。事例もイギリスに特有なものがあって、ゼミや講読会には不十分。自由の意味と範囲は
苫野一徳「『自由』はいかに可能か 社会構想のための哲学」( NHKブックス)
国家の介入が制限されるのは「人権」だけではないという議論は
米本昌平「バイオポリティクス」(中公新書)-1 
米本昌平「バイオポリティクス」(中公新書)-2 
この章にも自由の制限の例として出てくるヘイトスピーチに関する議論は
 師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」(岩波新書) 
法学セミナー2015年7月号「ヘイトスピーチ/ヘイトクライム 」(日本評論社)
法学セミナー2016年5月号「ヘイトスピーチ/ヘイトクライム II」(日本評論社) 
法学セミナー2018年2月号「ヘイトスピーチ/ヘイトクライム III」(日本評論社)
別冊法学セミナー「ヘイトスピーチとは何か」(日本評論社)
別冊法学セミナー「ヘイトスピーチに立ち向かう」(日本評論社)-1
別冊法学セミナー「ヘイトスピーチに立ち向かう」(日本評論社)-2
を参照。具体的な自由のなかに政治参加が入っていないのは不十分。自由以外に考慮する原理として正義と公正が入っていないのは不十分。自由と他者の関係は、他者の相互承認、公正の実現、マクシミン原理を使うと自由の範囲と制限がよりよくわかるのではないか。これらの議論をみても、自由は結果ではなく、構想を実践する過程なのだなあ、というのがわかる。自由は常にあるのではなく(さまざまなルーティンでは自由は意識されない。構想を実践する意欲や欲望の現れにおいて現れ、行為の完了とともに消える。まるでジャンケレヴィチが考える音楽みたい。)
(政治参加の自由、共和主義などを考えるときに、アーレントやサンデル、アマルティア・センなどの考えを参照することは大事。アーレントとサンデルの概要はカテゴリーから。アマルティア・センの考えは
2014/06/05 アマルティア・セン「貧困の克服」(集英社新書) 2002年
2016/07/7 アマルティア・セン「人間の安全保障」(集英社新書) 2006年
を参照。)

5 正義 ・・・ (この章は全く不十分。なので、サマリーは作らずつっこみだけにする。正義の類型を分類する。個人の行為と社会正義。分配的正義と交換的正義。この章では正義をリソースの分配で検討する。なので平等であることを要求する。でも平等は人々に有意な差異がないときには成り立つが、実際には差異が存在するので分配は平等にはならない。ロールズは格差原理でもっとも不利な人の便益が最大になるように分配されることを要求するが、著者は一定程度(健康で文化的な生活を送れるくらい)に制限し、好運や努力で成功した人が多く分配されることを肯定する。正義を最大多数の最大幸福とみるような功利主義とする立場だ。功利主義では、ドスト氏が「カラマーゾフの兄弟」などで弾劾するように虐げられ辱められる少数の人々を肯定する。それでは正義にならないというのが、最近の了解事項。正義はここ数年の関心事項なので、興味を持って読んだが、期待外れだった。)
ロールズの読書は挫折したので、このブログではサンデルとアマルティア・センの議論を参考に。)

6 フェミニズム多文化主義 ・・・ 近世になってから議論されてきた政治哲学(本書1~5章)は女性とマイノリティを無視してきた。これは政治(学を含む)の怠慢で、無視されてきた人の保障の欠如を意味する。女性とマイノリティは選択肢の範囲が制限されていて、社会的な制限や偏見に傷ついていて、余分なコストを払わされている。
(内容は薄いので、参考文献などで補完しましょう。本書では問題のありかさえわかりません。マイノリティ問題のうちヘイトスピーチは「反差別カテゴリー」のエントリーを参照。)

7 ネイション、国家、グローバルな正義 ・・・ 古代から近世の都市国家ギリシャのポリスやイタリアの貿易都市など)は外敵脆弱性で滅んだ(より大きな帝国や国民国家には対抗できない)。都市国家では目に見える政治的共同体に忠誠を尽くしたが、国民国家ではネーションが統合の象徴になる。ネーションには隣国への反目や憎悪から生まれる側面がある。ネーションと国家は互いに強化しあう(ときに国民を弾圧して搾取する)。一方ネーションは社会正義や福祉の義務を国民が引き受けるモチベーションになる。20世紀後半からは国民国家を超える動きができている。グローバル企業や国家間経済協力圏など。国民国家に代わるグローバルな政治的権威は構想されるが、人々の政治参加ができない、専制化、政治運動で選抜されたものではないものに権力集中などの問題がある。
(内容は薄いので、参考文献などで補完しましょう。「政治」や「経済」カテゴリーにも参照できるエントリーがあります。)
2017/05/26 宮島喬「ヨーロッパ市民の誕生」(岩波新書) 2004年
2019/07/12 庄司克宏「欧州連合」(岩波新書)-1 2007年
2019/07/11 庄司克宏「欧州連合」(岩波新書)-2 2007年

 

 

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 イギリスの上流階級が政治や経済のリーダーシップをとることになるような人々に向けて解説したという趣き。女性やマイノリティの生活がしにくいとか、グローバル化で資本主義のゴミを一手に押し付けられているグローバルサウスの人たちの苦しさとか、失業で金も家もない人の厳しさとかは遠くにあるよう。国際会議で議論している人たちが参考にしているのだろうな、とも。
 もっと地面にちかいところで政治哲学を学ぶべきなので、とりあえず有斐閣が大学生向けに出版している政治学や政治哲学の教科書のほうが読みでがあります。
2020/11/05 北山俊哉/真渕勝/久米郁男「はじめて出会う政治学 -- フリー・ライダーを超えて 新版」(有斐閣アルマ)-1 2003年
2020/11/03 北山俊哉/真渕勝/久米郁男「はじめて出会う政治学 -- フリー・ライダーを超えて 新版」(有斐閣アルマ)-2 2003年
2020/11/2 加茂利男/大西仁/石田徹/伊藤恭彦「現代政治学 新版」(有斐閣アルマ)-1 2003年
2020/10/30 加茂利男/大西仁/石田徹/伊藤恭彦「現代政治学 新版」(有斐閣アルマ)-2 2003年
2020/10/29 川崎修/杉田敦編「現代政治理論(新版)」(有斐閣アルマ)-1 2012年
2020/10/27 川崎修/杉田敦編「現代政治理論(新版)」(有斐閣アルマ)-2 2012年
2020/10/26 藤田弘夫/西原和久編「権力から読みとく現代人の社会学・入門(増補版)」(有斐閣アルマ)-1 2000年
2020/10/23 藤田弘夫/西原和久編「権力から読みとく現代人の社会学・入門(増補版)」(有斐閣アルマ)-2 2000年

保坂俊司「国家と宗教」(光文社新書)-1 キリスト教とイスラームの場合

 著者は比較宗教学者
 日本では、政教は分離されているとたいていの人が認識しているが、政教分離は普遍原理ではない。日本そのものが神権政治の国だった。その精神は日本国憲法施行以後も消えていない。他の国では政治と宗教が一体化しているところがあるし、カソリックプロテスタントの正当性争いとそれに伴うテロや内戦を経験して政教分離を維持しようとするところがある。本書では世界宗教であるキリスト教イスラーム、仏教と政治の関係を見る。その視点で日本の政教を見る。
 宗教は「一般に、人間の力や自然の力を超えた存在への信仰を主体とする思想体系、観念体系(wiki)」をされるが、個人の生と死の意味や価値をある集団が決めて強制するありかたも宗教と見たいと俺は思う。そうすると、靖国神社に祀られるという信念の強制も宗教であるとみなすことができる。

第1章 キリスト教と政治 ・・・ キリスト教国教化以前のローマ帝国には、異なる神を信奉する集団が複数あり、信仰形態や価値観は多様だった。信仰には寛容であるが、法体系は強制するというというのがローマ帝国のやり方だった。しかしユダヤ人は法体系に反抗したので、迫害された。キリスト教は世俗権力に迫害される経験を持っていたので、宗教は世俗権力と一線を画してきた。
 中世になると、教会権力が世俗権力より強く広範囲だったので、法や生活で宗教規範を守ることが求められた。 
「日本人は一般的に、宗教は人間の幸福や社会の平和のためにある、というような漠然とした宗教観を持っているが、セム的宗教の平和や平安は、神の命令が正しく実行され、人々が義務を果たし、救いの道に適っている状態をいうのである。/したがって、この状態に無い場合には、人々は命を懸けて神の道の復興を目指さねばならない(P34)」
 この考えはヨーロッパの人々を拘束したので、世俗権力を打倒するときでも神の意志を具現化する目的を達成することであるとされた(ピューリタン革命など)。一方で西洋では人間中心世界観(ヒューマニズム)が生まれ、神の意志の具現化という考えと拮抗した。
2019/07/12 庄司克宏「欧州連合」(岩波新書)-1 2007年
2019/07/11 庄司克宏「欧州連合」(岩波新書)-2 2007年
 アメリカはプロテスタントの改革派が主に移住し、建国や政策に関与したので、国家と宗教とのかかわりが異なる。特長は、1.宗教多元主義、2.世俗主義(宗教生活と日常生活はいっちするべき)が強く、現実に展開する要実行する、3.フロンティアスピリッツ、4.民衆人身による統治、とまとめられる。20世紀以降のアメリカの国際政治にはこの考えが反映しているという。あるいは進化論、人工中絶、LGBTQの婚姻などでは教義に基づく反発が起こる。
<参考エントリー>
森安達也「近代国家とキリスト教」(平凡社ライブラリ)
深井智朗「プロテスタンティズム」(中公新書)-1 2017年
深井智朗「プロテスタンティズム」(中公新書)-2 2017年
藤原帰一「デモクラシーの帝国」(岩波新書) 2002年
 公民権法ができる前のアメリカでは聖書の記述にもとづいて奴隷制度が是認されていたとのころ。奴隷制(と黒人差別)は宗教的に是認された宗教制度であるという。白人による差別が解消しがたいことと、被差別者の黒人がキリスト教からイスラムに改宗する傾向が強まっているという。その理由にはこのような宗教的情熱に基づく人種差別が横行していることがある。そのためにアメリカ国内のイスラーム人口はユダヤ教徒の人数を上回るまでになっているという(2006年現在)。またヨーロッパの人間中心世界観(ヒューマニズム)はイスラムと相いれないので、社会の軋轢の原因になる(中東の紛争でアメリカが介入しても解決に至らない原因でもあるだろう)。
2022/03/22 本田創造「アメリカ黒人の歴史 新版」(岩波新書)-1 1990年
2022/03/19 本田創造「アメリカ黒人の歴史 新版」(岩波新書)-2 1990年
 本書では、国家の機能と宗教団体組織の関係はほとんど書かれない。そのために国家と宗教のかかわりはばくぜんとしている。アメリカの在り方を主にみているので、ヨーロッパの各国(とくにイギリス、フランス、ドイツと、東欧諸国、ロシア)、カソリックロシア正教の国の現状がほとんどわからないのが残念。

第2章 イスラームと政治 ・・・ イスラームではすべて神に帰一するという政教一元論(タウヒード)である。権力者への服従は義務であり、イスラムの教えは世俗社会の法規範とされる。イスラームの教えが世界全体に広がることをめざす。この考えは、西洋の近代主義の合わせ鏡である。資本主義、市場経済、民主主義、議会制代議員制度、男女同権などの西洋の近代的価値観はイスラームの教えにはあわない。そのためにイスラームが他の宗教集団と交流するときに、うまくいかないことが起きる。
(20世紀にイスラームの覚醒と台頭が起きた。著者は植民地解放運動と独立国家の成立、人口爆発にみているが、19世紀に西洋がイスラーム諸国を植民地にして差別と搾取を行ったことが遠因ではないか。)

 

 ユダヤ、キリスト、イスラームは共通の宗教から派生したので「セム族の宗教」「アブラハムの宗教」と呼ばれる(後者を使うことが勧められている)。共通点が多いのであるが、世俗権力とのかかわりでは政教分離か政教一元化で大きく違ってしまった。
 キリスト教と政治の関係はよく調べられているけど、イスラームのほうの記述は簡単で、現代にはほとんど触れられていない。他の本で補完しないといけない。日本でもイスラームが増えていて、国内の排外主義に攻撃されている。極右やネトウヨに対抗できる知識は必要。

 

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2024/04/05 保坂俊司「国家と宗教」(光文社新書)-2 仏教と神道の場合 2006年に続く

保坂俊司「国家と宗教」(光文社新書)-2 仏教と神道の場合

2024/04/08 保坂俊司「国家と宗教」(光文社新書)-1 キリスト教とイスラームの場合 2006年の続き

 

 後半は通常政治的ではないとされる宗教が政治に関与しているという話。アジアの政教分離はヨーロッパとはかなり違う。

第3章 仏教と政治 ・・・ 仏教には政治哲学はないというがそうではない、さまざまな国で仏教が国家宗教になっているから。とはいえ、仏教は容易に分派するので統一的な教義や政治哲学を見出すのは困難である。というのも仏教集団は不殺生で暴力装置を持たず、政治権力を持とうとしなかった。為政者を感化することを行ってきた。またインドをみると、バラモン教が差別を前提にした社会であるが、仏教はあまり抵抗批判してこなかった。大乗仏教が東南から東アジアで隆盛したが、この空思想が国家に受け入れられたのは多民族・他宗教の地域を統合する思想であったためだろう。空を受け入れれば、現世の差異を越えられるとしたのだ。
第4章 日本宗教と政治 ・・・ 神道を意識することはめったにないが、天皇や神社に違和感をもたず、慎重な扱いが必要というのはわかっている。そういう教育や伝統を持っているのが日本の宗教意識だ。
天皇崇拝が始まる前は、祟りやケガレの祭祀を行い、冠婚葬祭などに反映していた。神道もこの影響を受けている。
聖徳太子(576-622)のころに天皇崇拝の神道を仏教化する。当時、東南アジアから中国まで仏教による宗教祭儀が国家祭儀になっていたので、神道の仏教化は国際化・文明化だったのだ。
・中世になると仏教のほうが列島の人々に伝播し、神道はあまり意識されなかった。天皇の名称も使われず(「院」とされた)、門跡寺院に入って生活していた。ただし天皇は僧にはならない。
・江戸後期の光格天皇天皇復古の運動を開始する(傍系だったので、意識的に天皇原理主義を作って、自分の価値をあげようとしたらしい)。ちょうど国学の勃興期で、光格天皇はその影響を受ける(当然幕府の朱子学に対抗する意図もある)。したがって、天皇は日本国主であり、仏教を排除することをめざす。それは平田篤胤神道思想由来。19世紀になると、富裕層町民に国学思想が広まる。この天皇原理主義運動は倒幕運動と合体する。
(参考情報)
「〔近世国学によって〕米が天皇神事と不可分の穀物として改めて位置づけなおされたことで、古代神話にまでさかのぼって、国家の成立と近代の水田景観のイメージが分かちがたく結びつき、広範な水田景観と稲作は、古代以来連綿と継続して日本の歴史とともにあると考えられることとなってしまった」
https://twitter.com/hayakawa2600/status/1523476783172964353
明治天皇は、過去900年続いた仏教化された天皇制を変える。宮中の仏具その他が撤去され、門跡寺院を持たなくなる。ここで仏教と神道が断絶する。そればかりか、廃仏毀釈運動を行って全国の寺院を破壊した。これは政府の命令もあったが、民衆による熱狂もあったらしい。この運動は正しい・良いと考えられていたので、記録がほとんど残されていない。ときには石仏をトイレの踏み台にすることもあったという(象徴的に「神殺し」を行ったのだろう)。
・日本では中世から死の祭儀と鎮魂を仏教が行ってきた。明治政府の廃仏毀釈によって仏教が国家的な鎮魂祭儀を行わなくなったので、神道が担当しなければならなくなった。しかし神道は死の儀礼に直接かかわってこなかった。そこでとくに戦死者の鎮魂のために靖国神社(もとは招魂社)をつくった。靖国神社の管理は陸海軍と内務省が担当したので、おのずと宗教的政治的な場所になった。古来の神道や仏教は敵味方の区別をせず怨親平等に扱ったが、靖国神社は敵と味方の区別をつけ、前者を追悼する思想と儀礼を持たない。

 タイトル「国家と宗教」を論じるには、入口だけで終わった感。ことに日本宗教のページがそう。近世国学以降、天皇制が仏教を廃棄して神道に復古するまでの経緯を描いておしまいになってしまった。21世紀の日本政治(ことに安倍晋三内閣以降)が神道系の宗教団体と結びつきを強め、その方針を政策化している様子はまったく触れられなかった。その一部は下記のエントリーで補おう。
山崎雅弘「日本会議 戦前回帰への情念」(集英社新書
青木理日本会議の正体」(平凡社新書
 自分の関心に寄せると、宗教団体の全国的な組織が政治に関与している構図が気になっている。そこでは政教分離はないのだが、日本の政治は宗教的ではないとほとんどの人が考えているのと乖離している。これをつなぐ精神や思想はいったいなんだろう、ということ。
 とりあえず思いつくのは、政策を批判なしでそのまま周知する広報はあるが、政策の意図を解説し批判する報道がほとんどないこと。同時に近世国学以降の神道イデオロギーを解説する本がほとんどないこと。自分なりにある程度の見通しがもてるようになったには、本書を含め、以下のいくつかを読んでからだった(ほかにも日本近現代史の本を多数)。でも一冊にまとめることができるはずなのに、そういう本はなかなか見当たらない。
遠山美都男「天皇誕生」(中公新書
神野志隆光古事記日本書紀」(講談社現代新書
千田稔「伊勢神宮 東アジアのアマテラス」(中公新書
 これはヨーロッパやアメリカの政治とプロテスタンティズムの関わりが調べられているのと好対照。日本やアジアの「国家と宗教」はもっと明らかにされるべき。

 

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