odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

早乙女勝元「東京大空襲」(岩波新書) 行政が空襲記録をつくらないので、民間が聞き取り調査する。無差別空襲を立案指揮したルメイに日本国は勲章を贈った。

 サイパン島などを陥落したのち、アメリカ海軍は空爆の指揮官をルメイ将軍に変えた。その結果、軍事施設をピンポイントで狙う作戦が変更され、無差別爆撃になった。東京への昭和20年1月と2月のテスト空襲で十分な成果を得られると判断したため、3月10日、14日、4月13日、17日、5月23日、25日と大規模空襲を行った。東京の生産力は作戦開始前の50%以下になったと判断したので、目標はほかの都市に移った。そしてこの作戦を立案したルメイ将軍は昭和39年にこの国の政府から勲章をもらった(戦後、自衛隊の育成に貢献したという理由で)。
 さて、知己と財産を強制的に奪われるという経験は、その人に強い罪悪感と心身障害を残す。その人は夢に繰り返しその経験を見ることもあるが、それを口にすることができない。その経験のあまりにも悲惨で非道な内容を共感できる人は少ないし、「助けられなかった」「見殺しにしてしまった」などと自責の念を消すことができないから、それが「自分が生き残ったことは罪悪かもしれない」に転化するから、またそれを口にすることによって「穢れている」と社会から忌避されるかもしれないという恐れもあるから。一方、知己や財産を失った人に対して、支援はほとんどなかった。そうなると、ますます口を閉ざすことになる。

 東京大空襲は、いくつかの文献に書かれてきた(永井荷風断腸亭日乗」、堀田義衛「方丈記私記」中島健蔵「昭和時代」など)。しかし全体状況は把握できなかった。上記のように被害者が口をつぐんだのもあるが、時の政府が調査を怠ったことにも原因がある(この本によると、ハンブルグ空襲など連合軍の空襲を経験したドイツは、すぐに大規模調査を行い、被害の総量と原因分析の膨大な資料を残したという)。
 著者は、江東区の住人で当時13歳。3月13日からの空襲を経験した。この記録が残されていないことに憤りを感じて、東京大空襲の記録を集める活動を開始する。本書はたぶんその第一弾にあたる。係累をたどることで数十名の経験者に対談を申し入れたが、ほとんどの人に断られ、承諾した13人の証言を組み合わせて、3月10日の空襲の模様を再現する。
 作戦はこうだ。おとりの2機のB29を東京上空に飛ばし、なにもしないまま房総半島を通過し退避することで、警戒を緩める。その直後に300機とも400機ともいえる大編隊で侵入する。まず、円形に空爆し炎の壁を作り、閉じ込められた人の逃げ場をなくす。そして円の内部を風上から順次、爆弾を落としていく。多くの人は窒息死、圧迫死、二酸化炭素一酸化炭素の中毒、厳冬の川に逃げ込んだ末のショック死、溺死などを遂げる。たくさんの焼夷弾は人の体を炭化するほどの燃焼力を持っていた。この夜の死者は8万人にもなるという。本書には何枚かの写真が掲載されているが、それは当日および翌日にかけて撮影されたものだ。被害の大きさと悲惨さに目を背けたくなるが、見なければならない。
 その経験の証言が25年間閉ざされていたことに注目しよう。本書の冒頭には、当時のある工事で防空壕を掘り当て、炭化した死体を発見したという記事を紹介していた。昭和20年から25年間、暗闇に残されていた人が帰ってきたわけだ。それは経験者の沈黙にも対応するだろう。願わくば、この証言をすることによって、桎梏が少しでも軽くなりましたことを願います。
 あと、この本にはほかの都市の空襲、たとえば大阪、広島、長崎、沖縄のことには触れられていないので、それは別に調べておくことにしよう。
 この国では、戦争は海の向こうでやっている、海の向こうからやってくるとみることになる。これが大陸では大地の果て地平線の向こうから押し寄せてくるものだし(騎馬兵や戦車が来る前に避難民が大量にやってくるのだ)、東南アジアでは自分らと無関係な連中が自分の街にやってきてドンパチするということになる。ここらへんの違いには敏感になっていたほうがよい。