昭和50年代、青山霊園付近で起きた幼女殺害事件。行きずりの仕業と思えたが、丹念な聞き込みによって、犯人の一人暮らしの初老男性を逮捕することができた。彼は古いマイセルのドイツ人形を大切にしていて、陽にあたることを嫌う不思議な男だった。そのうえ、彼の供述はとても不思議なもので、精神科医に鑑定を依頼することになった。そこで、男は戦前昭和の体験を語る。

昭和3年生まれの少年男子が、霊園近くにあるヘルツェヴィア公使館のわきを通る。そのとき、金髪碧眼の少年少女と出会う。それが始まり。少年は公使館のなかに連れられ、言葉は通じなくてもオルツィ「紅はこべ」マニアという共通点でつながり、兄を追いかけるいたいけな幼女といっしょに三人で遊びまわる。事件は翌年。ラドラックという二等書記官は公使夫人のお気に入りで深夜の密会を繰り返していたが、彼らはひと月足らずの間に相次いで亡くなってしまった。夫人は透き通るような肌をしていて、喉に噛み傷がついている。そして落雷によって墓の十字架が壊されてから、公使館の人々はみょうに暗くなってしまった。日本の少年はますます美しくなる妹に魅了される。しかし昭和16年の開戦は彼らの間を閉ざす。昭和20年、繰り返される空襲で少年の家が焼けた時、彼らは霊園に向かい、さらにその近くの御料の門前に避難する。そこに焼夷弾が落ちたのち、少年は妹の美少女と出会い、なにか甘美で超越的で決定的な経験(笠井潔「黄昏の館」(徳間文庫))をした。
1982年初出で、この国にモダンホラーが紹介されだしたとき(映画「キャリー」のヒットとS.キングの邦訳開始)だけど、読者の反応は鈍かったのではないかしら。ことに吸血鬼テーマはよく知られていなかったのでは(と思ったが、1983年に菊地秀行「吸血鬼ハンターD」(ソノラマ文庫)がでていて、吸血鬼ものの少女漫画がヒットしていた)。そのせいか、本書では吸血鬼テーマのガジェットや仕掛けがさりげなく、しかしわかるようにおいてある。上に挙げたもののほかに、にんにく嫌いだとか鏡に映らないとか小動物がふれると死んでしまうとか。読者の啓蒙もこの小説の主題なのでした。
ここまでは国産と洋物を混ぜ合わせたホラー。でも少年の語りが終えた後の総括を精神科医が語りだすと、とたんに超常現象否定のリアリズムになる。すなわち、死んだ書記官と夫人の死体はどこに行ったか、異美少女の行動の奇怪さ、少年の語りにあるウソ(おもに空襲の記憶)を暴いて合理的に説明する。ああ、これはブロックの「サイコ」だったのだ。異常な事件もそれは観察者の思い込みなのだ。理性は闇を駆逐する。
と安心してページを閉じる直前にまたひっくり返し。おっと、 ジョン・ディクスン・カー「火刑法廷」(ハヤカワ文庫)だったのか。日本で吸血鬼小説を書くのは大変です。土の記憶にないので、どうしても外部から吸血鬼を持ち込まないといけない。都筑道夫「血のスープ」(光文社文庫)は不自然さがめだつけど、本書では戦間期の帝都をうまく使っていました。作者も東京大空襲の体験があるのか、ここの描写はとても肉感的。少年少女が「秘密の花園」で遊んでいるのはファンタジックな少女漫画風だったのが、ここだけ劇画マンガになったかのよう。
(このアイデアを踏まえると、吸血鬼小説は二つの機能を持っているのだ。ひとつは、「呪われた町」「奴らは乾いている」で指摘したようなキリスト教信仰を勧める宗教小説。もうひとつは吸血鬼によってもたらされる全体主義に民主主義が対抗する政治小説。英米的なキリスト教民主主義国家を擁護するのだね。日本ではどちらも現実的でないので、男女のエロティックな関係が強調されることになる。)
なおあとがきによると、作者が残した三冊「弁護側の証人」「ダイナマイト円舞曲」「血の季節」はそれぞれ「シンデレラ、青ひげ、ドラキュラ」という「西洋三大ロマンの原型を現代ミステリーとして料理しようという計画」で書かれたとのこと。最初のがそうだとは指摘されるまでわからなかったなあ(雑誌連載のまま当時は埋もれていた「殺人はお好き?」は対象外)。
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