odd_hatchの読書ノート

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堀田善衛「上海にて」(筑摩書房)

 作家は1945年3月の東京大空襲(と直後の天皇行幸)のあと(ここは「方丈記私記」に詳しい)、上海に移動する。あわよくば欧州に行ければという無謀な妄想を持って。現地の文化協会だかの嘱託みたいなことをして、武田泰淳らと上海を歩き回る。8月10日、上海の町中にポスターが貼られる。すなわち日本のポツダム宣言受諾放送を傍受して、即座に国民党と共産党労働組合他が動いたのだった。日本軍解体のあと、中国国民党の宣伝部で、記事の翻訳などをして過ごす。1946年12月28日に上海を出て、帰国。そのあと連合国軍に占領されたこの国の人々は海外渡航がほぼできない状態であり、またサンフランシスコ講和条約に中国が参加しなかったこともあって、日中国交は断絶したままであり(回復は1972年)、解放後の中国には少数の人しか行けなかった。1957年、日本の文学者数名が招待され、作家は10年ぶりに上海を訪れる。27歳で初めて海外に出、足で覚えた上海を再び歩き回る。そのときの記録がこれでで、1959年に単行本にまとめられた。

 目次は以下の通り。
上海にて(回想・特務機関/ 戦争と哲学/ 町の名の歴史/ 忘れることと忘れられないこと/ 再び忘れることと忘れられないことについて/ 「冒険家的楽園」/ たとえばサッスーン卿という男について/ 町あるき/ 異民族交渉について/ 魯迅の刃か/ 暴動と流行歌/ 王孝和という労働者/ 自殺する文学者と殺される文学者/ 様々な日本人/ 死刑執行/ 腰巻き横町・裂け目横町・ 血の雨横町)
惨勝・解放・基本建設(惨勝とはなにか/ 解放ということ/ 基本建設・未来・歴史)
 十年という間はさまざまな思考をめぐらすには少し短かったようだ。1965年以降のエッセイや対談にみられるような歴史や人間などへの洞察の深さは見られなくて、現在進行中の思考がそのまま書かれている。そのうえ、中国も日本も大きな変貌が進行している最中で、この先の見通しを立てるのが難しい時期であるのも大きく影響している。どうしても断定的に語れず、躊躇や限定を付けたうえでの物言いになってしまう。
 それでもいくつもの瞠目する指摘がある。たとえば、あの「18年戦争」(中国ではさらに4年の内戦)があって、それから10年もたっていないというのに、多くの若者(20歳前後)が戦争体験の記憶を持っていないことに驚く。

「日本人、中国人おのおのの、非常に多くの人間が、それぞれに簡単にひっくるめてしまうことの出来ない、手間も手数もかかる、厄介といえば厄介、貴重といえば貴重な重荷をになっているということを意味するであろうと思う。それをほんとうに、心から、重いなあ、と思うことの出来る人が、この重荷に始末をつけることがもし可能だとして、おのおのそのほんの一端をでもうけもつ責任がある。(略)むかしを知っている人は、日中双方ともに、それを直接には知らない世代とのあいだの切れ目を少しでも埋めておく必要があろう。そうすることが、少しでも長く生きた人々の、たとえばこの若い通訳氏の世代に対する、また歴史に対する責任というものであろうと思う。(P48-49)」

 この国でも「自然災害」「戦争」の体験を語り継ぐという運動やかけ声がある。そこには個人的な体験を個別にたくさん話す/聞くことを要望するのだが、上の指摘では知識人の役割にフォーカスする。個人的であったり特別な体験を知ったうえで、そこに「知らない世代とのあいだの切れ目を少しでも埋めておく」思考を行わなければならない。
 しかし、この国のありかたはそれを実行するにはいくつかの問題を抱えている。

「近代日本の優等生、秀才ぶりと、その優等生性と秀才さ加減のもつ進歩性と、進歩性であると同時にそれが他に対しての反動となるという、この、ほとんど宿命的とさえいいたくなる二重構造にぶつかり、そこで立往生してしまうのである(P158)」

「歴史は殺された者の視点から――それは文学以外のかたちでは不可能であるかもしれないが――語られた方が生ま生ましくその実体に触れることが出来るのではないか(P162)」

 なるほど、この国の人は戦争に限らず殺された者の視点で語ることはあるのだが、おおむね身内で殺された人に限定される。一緒に殺された別の国の人や被差別者の視点を持つことはめったにないし、ましてこの国の人が殺した多くの人の「殺された者の視点」に立つことはさらに珍しい。個人的にはいても組織や集団になるとそういう視点は無視されたり侮蔑されたりする。いわく「恥」「記憶したくない」などで。だから、その点については、中国その他の歴史の見方で同意したり共通したりするところが極めて少ない。

「中国において抗戦勝利という、この四つのことばにかかっていたものは、日本における戦争についての勝利とか完遂とかいうものと、イメージがまるきり異っていた(P197)。(略)惨敗を『終戦』といいつくろい、占領軍を『進駐軍』といって、ことばの上で、あるいは定義の上で、きびしい現実をやりすごす、肩すかしをくわせて行く認識とは、どこかちがうように思う。それはごまかしであって認識ではない(P198)」

 1945年の敗戦のあと、占領でむりやり鎖国にされたこの国は「ごまかし」「肩すかし」をして、自分らが18年戦争で行った行為の成果とパフォーマンスを自分らの手で検証し、評価することを避けてきた。そのような指摘があって、すでに60年近くたとうというのに(これは1959年初出)、変更されていないし、むしろ上のような「重荷に始末をつける」どころか重荷がなかったことにする潮流も生まれている。そこに対する抗議や勉強はまだまだ必要(情けないかぎりだが)。
 十年ぶりの上海再訪で印象深かったのは、1949年の中華人民共和国の建国から10年たったとき、中国の青年が喜々として、健康的に、国家や社会インフラの構築を行っている姿。この晴れ晴れしさや健康ぶりは、まさに「解放」の体現したものだろう。それはおそらくキューバでもみられたものだし(「キューバ紀行」)、ロシア革命にもあったことだし、この国の敗戦後の再建運動でもあったことだろう。ここでは労働や生活がそのまま活動であり、国家や社会の再建であるという瞬間のきらめきがあったのだ。建設がひと段落して安定した生活ができるようになったとき、生活や労働は活動や政治から切り離されて、ふたたび抑圧の状態になる。これは悲しい矛盾。