ドスト氏の小説を再読しようとするとき、気が重くなる筆頭は本書の「ステパンチコヴォ村とその住民」(あと「ネートチカ」と「死の家の記録」)。なかなか手にする気になれなくて躊躇していたのを、半ば義務のような気分で読み始めた。ながい冒頭の「はじめに」こそひっかかってばかりだったが、次の章になって物語が動き出したら、とても面白くなった。これはおみそれしました。やはりドスト氏はドスト氏。流し読みですませてよいようなものは書いていない。
(今回は高橋和之の新訳。以前の河出書房版全集は、米川正夫の訳と小さな文字が問題だったのだろう。)

前回の感想がよい要約になっているので、再掲。
2020/02/13 フョードル・ドストエフスキー「スチェパンチコヴォ村とその住人」(河出書房) 1859年
メモをいくつか。
・これまでの小説は都会を舞台に貧乏人を主人公にしていたが、ここでは片田舎の地主や貴族などの中産から上流階級になっている。そこに無垢な語り手がやってきて、コミュニティの奇人変人たちがおかしなふるまいをするのに巻き込まれる。ああ、これがのちの「虐げられた人びと」「白痴」になったのだな、と得心した。
(以前には「主婦(女主人)」があったので、はじめてではない。ストーリーも本書に近い。)
・ドスト氏が想像したキャラのなかでも、一二を争う嫌な奴であるフォマー・フォミッチ。こいつのことをファルスタッフのような大食漢の巨漢で好色なやつとみていた。しかし、ちゃんと小柄で、貧相で、白髪交じりの50代と書いてある。おやおや。キャラの風格体格ががらりと変わると印象も変わる。なるほど小男が「怪物的な自尊心」「ふてぶてしい自尊心」を持っていて、他人の言動が自分への当てこすりと思い込み、「侮辱された」と怒りといらだちをあらわにし、相手が引き下がるとよけいに攻撃的になり、相手の弱点をねちねちと指摘していたぶり、傍若無人に侮辱しいたぶり、暴君のごとくふるまう。そういう人物をかつて知っていたので、フォマー・フォミッチとだぶらせることができた。あの小男もまたフォマーのごとく小心で、劣等感でいっぱいだったのだ。フォマーの暴君ぶりはシェイクスピアのあまたの暴君にくらべるとコップの中の嵐程度でさほど分析したい興味はわかないが、近代の暴君=独裁者には小男が劣等感と自尊心をばねにして、政権に上り詰めたものがいる。この類似はいちおうメモにしておこう。
(フォマーの場合は、メイトリアークである将軍夫人の権勢を後ろ盾にしているのが、独自でのし上がった独裁者たちとは異なる。フォマーのごとき暴君はのちにフョードル@カラマーゾフの兄弟として現れる。そうすると、第2部でロスタネフの抵抗は「親殺し」として解釈できるのかもしれない。)
・フォマー・フォミッチの暴君ぶりに対して抵抗できない、むしろ進んで屈従するエゴール・イリッチ・ロスタネフの被虐がとても際立つ。フォマーの暴君ぶりより、彼の卑屈さの方に気分を害するのではないか。この被虐ぶりはフォマーという鼠をいたぶる猫がいるからきわだつ。
でも、加虐者がみえない被虐愛好者はドスト氏のキャラにはたくさんいるのだった。「貧しい人々」、「分身(二重人格)」「白夜」や「地下室の手記」の主人公がそう。いたぶられるほどに、卑屈になっていく。
もうひとつこのキャラの特長は何事かをなそうとして、自分から失敗するように仕向け、失敗してさらに落ち込むことを繰り返すこと。上の人たちがみなそう。そしてなにごとかをなそうとして自らダメにするキャラの系譜の先にラスコーリニコフ@罪と罰がいる(ことにポリフィーリ―とのやりとりでの被虐ぶり)。たぶんカラマーゾフの三兄弟もそういう行動性向を持っている人たち。書かれなかった「カラマーゾフの兄弟」第2部で行われるはずの、アリョーシャの計画もまた失敗があらかじめ組み込まれているのではないかと妄想してしまう。
2019/11/15 亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」(光文社新書) 2007年
・ただおれにジェンダーギャップがあるとすると、被虐の男性には関心を向けるのに、女性の被虐をみすごちやすいところ。ネートチカ、ネリ(「虐げられた人びと」)、ソフィア(「罪と罰」)、リーザ(カラマーゾフの兄弟」)など。彼女らには被虐体質よりも、彼女らへの差別や屈辱などの社会問題を見出しがちになる。彼女らは被虐によってなにか高貴で恍惚する至高体験をめざす神秘家であるのかもしれない。
・語り手が帰省してからの二日間で、フォマーがなんどもいきりたつわ、叔父(ロスタネフ)がおろおろするわ、貧乏な従兄が金持ち伯母さんと偽装結婚を仕掛けようとするわ、語り手は家庭教師に振られ、家庭教師は叔父を愛しているといい、それをフォマーに見られておろおろし、金持ち伯母さんは別の若者と駆け落ちして失敗するわ、それらの関係者が全員集まった中で、叔父(ロスタネフ)は逆上してついにフォマーを「ガラス戸に力まかせに叩きつけ」「石の階段をくるくると七段転げ落ち、地面に伸びてしまった」。これで留飲がさがるかというとフォマーに心酔する奇人変人たちは彼の介抱をし、村を出ていくというのを必死でとどめるのであった。すこし意気の挫けたフォマーは叔父と家庭教師の結婚を祝福し、ともあれドタバタ騒ぎはこれで一件落着するのである。
(事件が起こるたびに人が増え、混乱が増していくシーンを描き切るドスト氏の筆力はさすが。この技術はのちに「悪霊」第2部の終りや「カラマーゾフの兄弟」のミーチャの乱痴気シーンで最高度に発揮される。)
冒険小説であればフォマーは最後にみっともない姿をみせて改悛するものであるが、このあと七年も叔父の家の居候し続けるのであった。あいかわらずフォマーは居丈高で人を侮辱せずにはいられないものの、威光は少しずつ低下するのであった。この嫌な奴がほとんど変わらないのは遺憾ではあっても、まあしょうがない。変わったのは周辺の奇人変人たちのほうか。それまで金と権力を持っていたものは落ちぶれ、落ちぶれていたものは金を持つようになったのである(にっちもさっちもいっていなかったミジンチコフが地主になったというのに大笑い)。こういう逆転が起こったのが、ユーモア小説の所以かしら。
・訳者解説からいくつか。ドスト氏がシベリア流刑中に採録した囚人たちのことばが本書にはふんだんに使われている(注がある)。語り手もフォマーも空想家であり、現実との対決で挫折する/した経験の持ち主である。その系譜にあるキャラなのか、これは気づかなかった。
・「死の家の記録(光文社古典新訳文庫)」の訳者解説では、「ステパンチコヴォ村とその住民」(と「伯父様の夢」)を「ゴーゴリ的世界をカーニバル風にアレンジした『様式的な』作品(P696)」としている。
フョードル・ドストエフスキー「スチェパンチコヴォ村とその住人」→ https://amzn.to/43tM2vL https://amzn.to/3PDci14